野村胡堂 銭形平次捕物控(巻十七) 目 次  花見の仇討  蜘蛛の巣  妹の扱帯《しごき》  嘆きの幽沢  花見の仇討     一 「親分」  ガラッ八の八五郎は息せき切っておりました。続く——大変——という言葉も、容易には唇に上りません。 「何だ、八」  飛島山《あすかやま》の花見帰り、谷中へ抜けようとする道で、銭形平次は後ろから呼び止められたのです。飛鳥山の花見の行楽に、埃《ほこり》と酒にすっかり酔って、これから夕陽を浴びて家路を急ごうというとき、跡片づけで少し後れたガラッ八が、毛氈《もうせん》を肩に引っ担いだまま、泳ぐように飛んで来たのでした。 「親分、——引っ返して下さい。山で敵討《かたきうち》がありましたよ」 「何?」 「巡礼姿の若い男が、虚無僧《こむそう》に斬られて、山は煮《に》えくり返るような騒ぎで」 「よし、行ってみよう」  平次は少しばかりの荷物を町内の人達に預けると、獲物を見つけた猟犬のように、飛鳥山へ取って返します。  柔らかな夕風につれて、どこからともなく飛んでくる桜の花片、北の空は紫にたそがれて、妙に感傷をそそる夕です。  二人が山へ引っ返した時は、全く文字どおりの大混乱でした。異常な沈黙の裡《うち》に、掛り合いを恐れて逃げ散るもの、好奇心に引きずられて現場を覗《のぞ》くもの、右往左往する人波が、不気味な動きを、際限もなく続けているのです。 「退《の》いた退いた」  ガラッ八の声につれて、人並はサッと割れました。その中には早くも駈けつけた見廻り同心が、配下の手先に指図をして、斬られた巡礼の死骸を調べております。 「お、平次じゃないか。ちょうどよい、手伝ってくれ」 「樫谷様《かしやさま》、——敵討だそうじゃございませんか」  平次は同心樫谷三七郎の側に差し寄って、踏み荒した桜の根方に、紅《あけ》に染んで崩折れた巡礼姿を見やりました。 「それが不思議なんだ、——敵討と言ったところで、花見茶番の敵討だ。竹光を抜き合せたところへ、筋書どおり留め女が入って、用意の酒肴《さけさかな》を開こうと言う手順だったというが、敵の虚無僧になった男が、巡礼の方を真刀《しんとう》で斬り殺してしまったのだよ」 「ヘエ——」  平次は同心の説明を聴きながらも、巡礼の死体を丁寧に調べてみました。傘ははね飛ばされて、月代《さかやき》の青い地頭が出ておりますが、白粉を塗って、引き眉毛《まゆげ》、眉張りまで入れ、手甲、脚絆から、笈摺《おいずる》まで、芝居の巡礼をそのまま、この上もない念入りの扮装《こしらえ》です。  右手に持ったのは、銀紙張りの竹光、それは斜《はす》っかいに切られて、肩先に薄傷《うすで》を負わされた上、左の胸あたりを、したたかに刺され、蘇芳《すおう》を浴びたようになって、こと切れているのでした。 「身元は? 旦那」  平次は樫谷三七郎を見上げました。 「すぐ解ったよ、馬場の糸屋、出雲屋の若主人宗次郎だ」 「ヘエ——」 「茶番の仲間が、宗次郎が切られるとすぐ駈けつけた。これがそうだ」  樫谷三七郎が顎《あご》で指すと、少し離れて、虚無僧が一人、留め女が一人、薄寒そうに立っているのでした。  そのうちの虚無僧は、巡礼姿の宗次郎を斬った疑いを被《こうむ》ったのでしょう。特に一人の手先が引き添って、スワと言わば、縄も打ち兼ねまじき気色を見せております。  次第に銀鼠色に暮れ行く空、散りかけた桜は妙に白茶けて、興も春色も褪《さ》めると見たのもしばし、間もなく山中に灯が入って、大きな月が靄《もや》の中に芝居のこしらえ物のように昇りました。  陰惨な、そのくせ妙に陽気な、言いようもない不思議な花の山です。 「旦那、少し訊いてみたいと思いますが——」  平次は樫谷三七郎を顧みました。 「何なりと訊くがよい」 「では」  平次は茶番の仲間を一とわたり眺めやります。     二 「お前は?」  一番先に眼を着けたのは、天蓋《てんがい》だけ払って青白くたたずんだ背の高い虚無僧でした。 「ヘエ、同じ町内の兼吉と申します、油屋渡世で」 「知ってるだけを話してみるが良い」  平次の調子は冷たくて峻烈《しゅんれつ》です。 「お花見も毎年のことだから、今年は趣向を変えて、敵討の茶番を出そうと言い出したのは、出雲屋さんでした」 「……」 「出雲屋さんは二枚目型だから、敵《かたき》を討つ方の巡礼、私はこんな柄ですから、討たれる方の虚無僧で」 「……」  平次は黙って先を促します。砥《と》の粉《こ》を塗って、隈《くま》を入れた顔、尺八を持って一刀を手挟《たばさ》んだ面魂は、五尺五六寸もあろうと思う恰幅《かっぷく》の、共にいかさま敵役に打って付けの油屋兼吉です。 「ここで落ち合うのは申刻半《ななつはん》〔五時〕出雲屋さんが敵名乗りを揚げて、二人が竹光を斬り結んだところへ、良助さんが留め女に入って、三味線を弾くと、巡礼の出雲屋さんと、六部《ろくぶ》になった倉松さんの笈摺から、酒肴が出るという寸法で」 「その竹光を見せてもらおうか」 「ヘエ——」  虚無僧の兼吉が、鞘《さや》ごと出した一刀、平次は引っこ抜いてみると、これは紛れもない銀紙貼りの竹光、人など斬れる代物《しろもの》ではありません。 「それからどうした」 「出雲屋さんは一足先へ出ましたが、あとの三人はお店《たな》の人達と一緒に、バラバラに出掛けるうち——私は家から使いの者が来て、途中から瓦町《かわらまち》まで引返し、四半刻《しはんどき》〔三十分〕ばかり手間取って来ると、この始末でございました、ヘエ——」 「家の方にどんな用事があったんだ」 「それが不思議で、——瓦町の家へ引返すと、女房は使いなどをやった覚えは無いと言います」 「フーム」 「私を手間取らせておいて、私に化けた奴が山へ駆けつけ、出雲屋さんを斬ったのでございましょう」 「誰かそれを見た者は無かったでしょうか」  平次は樫谷三七郎を顧みました。 「五人や十人は見ていたはずだ。が、花時の飛島山にはそんな茶番は毎日二つ三つある。血糊《ちのり》の使い方と、巡礼の落入り方がうまいなとは思ったそうだが、これが本当の人殺しとは誰も気がつかなかったらしい。——そのうちに虚無僧は逃げてしまったし、掛り合いが怖いと思ったか、一人も進んでその時の様子を話してくれる者は無い。——これはみんな、茶店の老爺《おやじ》の口から出たことだ」  樫谷三七郎は舌鼓《したつづみ》でも打ちたい様子でした。極度に掛り合いを怖れたその当時の群衆は、よしや、眼の前で人殺しがあったところで、黙って見て、黙って引揚げてしまったことでしょう。 「爺《とっ》さん、お前さんは最初から見ていたんだね」 「ヘエ——、最初と申しましても、敵名乗りが始まってからでございます」  茶店の老爺《おやじ》は逃げも隠れもならず、仕様事なしの証人になりました。 「どんな事を言ったか知ってるだろう」 「何でも、芝居の|せりふ《ヽヽヽ》のような事を申しましたよ。——親の敵《かたき》権太佐衛門、ここで逢ったは百年目——とか何とか」 「それは斬られた方の巡礼の方だな」 「ヘエ——、すると、虚無僧は黙って引っこ抜いて斬りつけました」 「黙って?」 「何にも言わなかったようでございます。巡礼は少し見当が違った様子で竹光で受けましたが、虚無僧のは真刀だったとみえて、竹光は一ぺんに切れて、巡礼の肩先へ斬りつけました」 「フム」 「巡礼は驚いた様子で、——手前は何だ、——人違いなら、人違いと言ってくれ——と逃げ腰になりましたが、虚無僧は追っかけて力任せに突いたとみると、巡礼はあのとおり胸をやられて、材木のように仆《たお》れました」 「……」 「お茶番の積りで見物に寄って来た人達も、このとき少し変だわいと思った様子でしたが、気のついた時はもう、虚無僧は逃げてしまって、間もなく、六部の方《かた》が来てびっくりした様子で介抱しているところへ、女形《おやま》の方や、いろいろの方が駈けつけ、それからお役人様方が見えました。ヘエ」  茶店の老爺の話は思いのほか井然《せいぜい》としております。 「その虚無僧は、この人とは違うのか」  平次は油屋の兼吉を指したのです。 「ヘエ——」  老爺は返事に迷った様子でした。 「背の高さは?」 「かなり高い方でございました」 「天蓋や、着付や、尺八は?」 「大概決まりがございますから、よく似ております」  老爺の穏かな調子のうちにも、兼吉は逃げ路を塞がれた心持でしょう。隈取った顔が真っ蒼に変るのを平次は見落しませんでした。  そこへ、ノッソリと現われたのは、四十年配の浪人者です。 「宗次郎殿が殺されたそうじゃないか、一体どうした事だ」 「ああ蔀《しとみ》の旦那、大、大変なことになりました」  虚無僧姿の兼吉は泣き出しそうです。 「貴殿は?」  同心樫谷三七郎は、横合いからズイと出ました。二人にあまり物を言わせたくなかったのでしょう。 「蔀半四郎と申す。出雲屋の食客じゃ——」  半四郎は場所柄を考えたか、こう言いかけて、苦笑いの唇をつぐみました。 「出雲屋の主人が斬られたと、どこで聴かれた」  樫谷三七郎は追究します。 「遅れて夜桜見物に参ると、山中の大評判じゃ。巡礼姿の男が、虚無僧に斬られたと聞いたが——これ、油屋、その方が宗次郎を斬ったのか」  屹《きっ》と兼吉を見据えます。磊落《らいらく》そうな調子ですが、なかなか油断の無い面構えです。 「とんでも無い、旦那」  兼吉はもういちど顫《ふる》え上がりました。 「肩はかすり傷だ、刀を胸へ突っ立てるなどは、町人の仕業だな」  蔀半四郎は死骸を無遠慮に調べながら、こんな事を言います。     三  続いて六部になった倉松を調べました。が、これは背恰好が兼吉と似ているというだけで何の得るところもありません。順当に馬道を出て、多勢と一緒に順当に飛島山へ来たことは、時刻から見てもまず疑いは無いようです。 「お、こいつは真刀が仕込んである」  手先の一人は、倉松の持っていた錫杖《しゃくじょう》が、真刀を仕込んだ物騒なものだったことを発見しました。 「有り合わせの品でございます、ヘエ」  倉松はギョッとした様子でしたが、思い直して苦笑いをしております。錫杖に仕込んだ真刀は、物々しい品には相違ありませんが、肝心の血がついていなかったのです。 「お前は?」  平次は錫杖などに構わず、その次に小さくなっている女形《おやま》に問いかけました。 「ヘエ——、良助と申します」  ヒョイとお辞儀をしました。花見鬘《はなみかつら》を取った野郎頭、厚化粧に振袖をだらしなく着て、三味線を抱いた姿は奇怪です。 「稼業は?」 「ヘエ——、つまらない商売で。ヘエ」  良助は首筋を掻きました。小作りのキリリとした身体や、整った眼鼻立は、なるほど女形に向きそうですが、家業のことはあまり言いたくない様子です。 「遊び人ですよ、親分」  ガラッ八はささやきました。なるほどそういえば、堅気の人間らしくはありません。 「手前《てめえ》は黙っていろ——本人に言わせたいんだ」 「ヘエ——」  平次に極めつけられて、ガラッ八は一と縮《すく》みに縮んでしまいました。 「たいそう山へ来るのが遅れたそうじゃないか、家から使いの者でも来たのか」  と平次。 「それが不思議なんで、親分、油屋さんと同じような具合に、田圃《たんぼ》から三河島へ抜けようとすると、後から追っかけて来た見知らぬ小僧が、家に用事があるから、ちょいと戻ってくれと、こう言うじゃありませんか。——おやと思うと、もう小僧の姿も見えません。ともかく馬道の長屋まで戻ると、家はあっしが出た時のままで、何の変りもありません。まるで狐につままれたような心持で、引返して山へ来ると、この騒ぎです」  良助の話には仕方《ジェスチュア》が入ります。 「馬道の家には誰がいるんだい」 「独り者で、生憎誰もおりません」 「お前が帰ったのを見た者はないわけだな」 「ヘエ——」  良助は落胆した様子です。 「その扮装《なり》で歩くと町内の者が気がつくはずだが——」 「このお振袖じゃ、馬道は歩けません。扮装《こしらえ》は風呂敷包にして、王子の佐野屋で着換えました」 「フーム」 「佐野屋でお聞き下されば解りますよ、親分」 「まア、よい。皆な佐野屋で着換えたのか」 「いえ、王子で着換えたのは女形のあっしだけで、あとは六部や虚無僧や巡礼だから気が強いわけで、あの扮装《なり》で浅草から繰り出しましたよ、ヘエ」  良助の話はよく筋が通ります。  あとは出雲屋の手代佐吉、町内の者二三人、これはいずれも不断着のままで、なんの変哲もなく、馬道を出たのも一緒ですから、疑う余地は少しもありません。  ちょうどその時、山の八方へ手分けをして、噂《うわさ》と証拠を掻き集めました、五六人の手先が引揚げて来ました。 「樫谷様、——虚無僧が逃げた様子はございません」 「何?」  報告は皆なこの調子です。 「敵討騒ぎの後前《あとさき》から、山を降りた虚無僧は一人もありません。山番や見廻りの者が言うことですから、これは間違いのない積りで——」 「待て待て。すると、出雲屋宗次郎を殺した下手人《げしゅにん》は、まだ、この山の中にいるというのだな」  樫谷三七郎は予想外の様子です。 「花見客は驚いて大概帰りました。山の四方はすっかり見張ってありますから、怪しい者は、出ようも入りようもありません」 「フーム」  唸《うな》った樫谷三七郎の眼は、自然油屋兼吉の虚無僧姿に戻ります。兼吉が、もういちど顫え上ったのは言うまでもありません。 「平次、どうだ」  三七郎は平次を顧みました。 「|あっし《ヽヽヽ》にも解りません、旦那」 「それじゃともかく兼吉を番所まで伴れて行くとしよう。その他の者も掛り合いだ、遠出はならぬぞ」 「ヘエ——」  泣き出しそうな兼吉を追い立てて、樫谷三七郎は引揚げました。  残ったのは、平次とガラッ八と、山を見廻っていた土地の役人だけ。 「親分、もう一度山中捜してみましょうか」  ガラッ八は、沈み返った親分の顔を覗くのです。 「虚無僧の隠れるような穴なんか無いはずだよ」 「ヘエ——」 「それより手前《てめえ》は、馬道へ行って、出雲屋の店中の者の出入りと、良助、倉松、兼吉三人の身元を洗ってくれ、——おっと、浪人の蔀半四郎、あれも忘れちゃならねえ」 「ヘエ——」 「宗次郎に怨みのある奴はないか、宗次郎が死んで儲かる奴はないか——今日昼過ぎどこへ行ったか、行方の判らなかった奴はないか、それを訊き出すんだ」 「心得た」  ガラッ八は気軽に飛んで行きます。     四 「親分」  後ろから静かに声を掛ける者があります。静かながら、妙に艶《なま》めかしい声、半次はぼんのくぼを羽根で撫でられるような心持で振り返りました。  桜に松の交った道灌山道《どうかんやまみち》、月はかなり高く昇って、夢見るような朧《おぼろ》の中には、誰もいません。 「誰だ」  平次は思わず足を停めます。 「親分、私を忘れちゃ、懐中《ふところ》の十手の手前義理が悪いでしょう。ホ、ホ」  取って付けたような笑いですが、それが例の羽根で撫でるような媚《こび》を、夜の空気に漂わせるのでした。 「お滝か」  平次は素気ない調子で言いました。王子のお滝という、名題の女|巾着切《きんちゃっきり》、二十四五の豊満な肉体と、爛熟し切った媚態とで、重なる悪事をカムフラージュして行く、その道では知らぬ者の無い大姐御《おおあねご》です。 「お滝か——はないでしょう。銭形の親分さんともあろうものが、思案投げ首で、私のいるのも知らずに通り過ぎたりして」 「用事が無きゃ放って置いてくれ、俺は忙しい」  平次はクルリと背を向けて、そのまま行手を急ごうとすると、 「まア、待って下さいな、親分」  ヒラリと身を翻《ひるが》えしたお滝、平次の袖の下を潜るように先へ立ち塞がって大手を拡げます。粋な潰《つぶ》し島田、縮緬《ちりめん》の花見衣裳、少し斜に構えて両手を開いたポーズは、銭形平次の眼にも型になっておりました。 「用事があるなら言えッ」  もっての外の平次。 「出雲屋の若主人殺しの下手人は、見当だけでも付きましたか、親分」 「何?」 「それを教えて上げようと思って、ここで待っていたのですよ、親分」 「誰だ?」 「ホ、ホ、まるで|お白洲《おしらす》じゃありませんか、そんな怖い顔なんかしてさ。——ちっと恩に着なきゃ駄目」 「……」 「ね、親分さん、私は十年も前から、親分に岡惚れてるじゃありませんか、憎らしいねえ、本当に」 「十年前——お前が、小さい妹と二人で、両国で赤い股引《ももひき》を穿いて、玉乗りをしていた頃か」 「あら、よく知ってるのねえ、嫌になるじゃありませんか」  お滝は袂を翻して、平次を打つような素振りを見せました。  そういったお滝だったのです。 「だから余計な事を端折って、肝心の事だけ言うがよい」 「叶《かな》わないよ、親分には、——ね、親分さん、樫谷の旦那は、油屋の兼吉さんを縛る積りのようだけれど、あの人は、刃物を隠す隙《すき》も無かったし、返り血も浴びてないじゃありませんか」 「それがどうした」 「私は出雲屋さんを斬ったのは、真物《ほんもの》の敵持ちの虚無僧じゃないかと思うが、どうでしょう」 「フーム」  お滝は不思議なことを言い出しました。 「油屋兼吉さんが手違いで遅れたと知らずに、巡礼になった出雲屋さんが、真物の虚無僧——それも敵持ちでビクビクしているのか何かへ、いきなり敵名乗りを揚げて、竹光でも何でも、ピカピカするので斬りつけたとしたら、どうなるでしょう」 「……」 「真物の虚無僧はお茶番とは知らないから、すっかり真に受けて、本当に返り討ちにする気で殺さないとは限らないでしょう——」  お滝の言うことは、いかにも理に詰みます。 「ありそうな筋だな」  平次は静かに応えました。 「真物の虚無僧で敵持ちだったら、今頃は大宮あたりまで逃げ延びていますよ。飛島山で腕組みをしながらお日様を見たって、親分さん」  お滝の舌は次第に辛辣《しんらつ》になります。 「だがな、お滝、——敵討騒ぎがあってから、一人も山から逃げ出した虚無僧はないんだぜ」 「天蓋を取って、袈裟《けさ》を外して、笛を隠したら、虚無僧はどんな恰好になるでしょう」 「……」 「そんな浪人者は、飛鳥山に二三十人いましたよ、親分」  平次はしかし頭をふりました。虚無僧が人を返り討ちにしたところで、姿を変えて逃げ出す必要があろうとは思われません。 「騒ぎのすぐ後から、楽に逃げられたはずだ。姿まで変えるはずはない。——姿を変えて逃げたものなら、やはり出雲屋に掛り合いの者か、茶番の仲間だ」  平次の言うのは道理です。変装する以上は、顔を知られたくない者の仕業に相違ありません。 「親分」 「もうよい。——お前は誰かを助けたいんだろう、余計な事をすると薮蛇《やぶへび》になるぜ」 「……」  女は黙って頭を垂れました。     五  平次は足音高く谷中の方へ行くと見せて、そっと引返しました。朧の中を帰って行くお滝の姿が、何としても唯事《ただごと》ではなかったのです。  道は松の闇を過ぎて桜の朧に入りました。たゆたいがちなお滝の足取りから、平次は何やら読み取るような心持で、再び飛島山の方へ向いましたが、お滝は山に登る様子もなく、無関心に山裾を廻って、王子の町へ出ると、そのまま、後ろも振り向かずに、花見茶屋の佐野屋の暖簾《のれん》を潜ります。  しばらく間をおいて、佐野屋へ入った平次。 「今ここへお滝が入ったようだが——」  うさんな顔を店中に配りました。 「これは、銭形の親分さんで。ヘエヘエ、ツイ今しがた、お滝姐さんが来ましたよ。何でも、色気違いに後をつけられて、うるさくって仕様がないから、裏口からそっと逃がしてくれ——という頼みで——」  番頭は揉手《もみて》をしながら、およそもっともらしい調子でこんな事を言うのでした。 「ハッハッハッ、ハッ、ハッ——この平次が色気違いに見えるかえ、番頭さん」 「とんでもない親分さん」 「まア、よい、若い女の後を跟《つ》けて来たに違いないから、何と言われても一言もないよ、ところで、番頭さん」 「ヘエヘエ」 「今日、山の上であの騒ぎのある少し前に、馬道の良助が、ここで着物を変えたそうだ。それは、何刻《なんどき》だったろう」  平次は調子を戻して、大事な事を訊ねました。 「酉刻《むつ》〔六時〕少し前でございました。なア、お作」 「良助親分が女の着物を着て山へ行くと、間もなく酉刻《むつ》が鳴りましたよ」  下女のお作というのが梯子段へ片足かけたなりで応えます。 「敵討騒ぎのある前か後か」 「いえ、騒ぎがここへ聞えたのは、それから少し経ってからですが、馬道の良助親分が、女形《おやま》になって行ったのは、たぶん敵討騒ぎの最中だったでしょう」 「山へ行く時、ここへどんな物を預けて行ったえ」 「馬道の親分が、着ていたものだけでございました」 「フーム」  良助に対する疑いも次第に薄れて行きます。いや、佐野屋の番頭に訊くまでもなく、山の茶店の老爺の言うのが本当なら、宗次郎を殺した虚無僧は大男で、良助のような小男は、最初から疑いの圏外におかるべきはずです。  お滝に弄《もてあそ》ばれたような気持で、平次はムシャクシャしながら神田へ帰って来ました。 「親分、いろいろの事が解りましたぜ」  それを待ち構えていたのはガラッ八の八五郎です。 「何が解ったんだ、順序を立てて言ってみるがよい」  と平次。 「順序も何もありゃしません。お茶番へ出た連中で、宗次郎に怨みの無いのは一人もない位のもので」 「フーム」 「虚無僧になった油屋の兼吉は、出雲屋から金を借りて、眼玉の飛び出すような高い利息を七年越し払わされてますぜ」 「それから」 「六部になった倉松は、町内の顔役で、日ごろ宗次郎とは、角突き合いばかりしていますよ。宗次郎が死んで一番のびのびするのは倉松で」 「フーム」 「遊び人の良助は女の怨みだ。——出雲屋の新造というのは元|吉原《なか》の芸者で、良助と深い仲だったというから、これも命の二つや三つは取りたかったでしょう。それから——」 「まだあるのか」 「番頭の喜八、これは馬道の店で留守をしていたそうですが、近所で訊いてみると、遣い込みだらけですよ——それから女房のお夏は芸妓上りのくせに恐ろしい嫉妬《やきもち》で、亭主の首を締め兼ねない女だという評判ですぜ」 「首を締めたんじゃない、虚無僧になって飛島山で返り討ちにしたんだ。留守番の番頭と女房のお夏は下手人じゃない」 「すると、下手人は誰でしょう、親分」 「良助は山へ行った時刻が騒ぎの後だし、虚無僧の扮装《こしらえ》を隠しようはない、その上身体が小さい。倉松は皆なと一緒に馬道から来ている。兼吉は一番怪しいが、敵名乗りを揚げられて一言も言わなかったり、宗次郎を殺してどこかへ行って、またもとの姿で来るとは思われない。それに、こんな時は、一番怪しい奴はたいてい罪の無いものだ」 「……」 「もう一つ、兼吉だったら、血刀の始末をどうしたか、それも解らない。素人があれだけの事をしたんだから、返り血ぐらい浴びたはずだが、兼吉の身体にはそんな跡は一つもない」 「すると、怪しいのは、一人も無いじゃありませんか、親分」 「怪しくないのを取りのけた、残りの怪しい奴だ——」 「蔀半四郎」 「そのとおりだ、今のところ蔀半四郎が一番怪しい。が、浪人でも二本差しだ、うっかり縛るわけにも行くまい」     六 「親分、番頭の喜八は、頭痛がすると言って、昨日は昼から寝込んでいたそうですよ」  馬道の出雲屋へ行ったガラッ八、二度目には変な事を聞き込んで来ました。 「遣い込みのあるという番頭だな」 「ヘエ、その野郎で」 「行ってみようか、八」  二人はすぐ飛んで行きました。ゆうべ樫谷三七郎に引かれて行った油屋の兼吉は、申し訳相立ち難くそのまま留め置かれ、八丁堀の空気は、もうこの事件を解決と見ている様子なのが、ひどく平次を苛立《いらだ》たせたのでした。 「やア、岡っ引」 「ヘエ」  店へ入ると、食客浪人蔀半四郎、朝っぱらから酒臭くなって四方《あたり》を睨《ね》め廻しております。 「貴様は、この蔀半四郎を怪しいと睨《にら》んだそうだな」 「とんでもない、旦那」 「いまさら胡麻《ごま》を摺っても追っつかぬぞ、——その方の家来、あの顎のしゃくれた野郎が、昨日拙者が何をしていたか、くどく訊きおったぞ。不都合千万、——こう見えても武士だ、旧主の御名は憚るが、かつては西国筋の大名に仕え、百五十石を食《は》んだ蔀半四郎だ。三月越し養ってもらった、宗次郎殿を殺してよいものか悪いものか、考えてみろ」 「恐れ入りました。決して蔀様を疑うというわけじゃございません。出雲屋に出入りの者、昨日の茶番に掛り合いの者は、一応取り調べるのが、|あっし《ヽヽヽ》の仕事で、ヘエ」 「何だ? 岡っ引が武士を調べると? とんでもない野郎だ——それへ直れ、手討にしてくれる、ウーム」  手の付けようがありません。平次は這々《ほうほう》の体《てい》で逃げ出して、手代の佐七を小蔭に呼びました。 「番頭さん、変な事を訊くが、あの浪人者は、亡くなった御主人とは、どんな引っ掛りなんだい」 「何でもありません、用心棒に雇っただけで——」 「用心棒?——町人が用心棒に、浪人を雇っていたというのか」 「ヘエ、——まア、用心棒という程でもないでしょうが」 「何のための用心棒だ」 「お金を用立てた方に怨まれておりましたし、それに、ヘッ」  佐吉は妙な笑いようをするのです。 「女ですよ、親分。死んだここの主人と来たら、男も良かったが、名題の箒《ほうき》で、捨てられて首を縊《くく》った女も、騙されて身投げした女もあるという話ですよ」 「なるほどな」  平次は考え込みました。こう多勢の男女に怨まれているようでは、誰を目当てに縛りようはありません。  とにもかくにも、昨日半日寝込んだという、番頭の喜八の部屋を見せてもらいましたが、これは一方口で、脱け出すようなはずもなく、脱け出したところで、ここから飛島山まで飛んで行って、虚無僧に化けて主人を殺すにしては、喜八は少し年を取過ぎております。  飛島山の上で、敵討騒ぎのあった時刻まで、蔀半四郎はどこにいたか、これが、今のところ一番望みのある手掛りですが、憤々《ぷんぷん》として当りちらしている蔀半四郎に訊ねるわけにも行かず、平次はそのまま出雲屋を引揚げる外に工夫も無かったのです。     七 「あの浪人者でしょうか、親分」  ガラッ八はたまりかねて追いすがりました。馬道から、何を考えたか平次の足は、また飛鳥山の方へ向っているのです。 「いや、あの浪人者ではあるまい。宗次郎の傷は、武家——人の用心棒にでもなろうという、腕に覚えのある武士の仕業にしては、あんまり素人臭い。武芸は命がけの業だ、腕はなかなか隠せるものでない、それに」 「それに?」 「虚無僧の扮装《こしらえ》を隠しようはない、山には何百何千という人がいたはずだ」 「どこか——着換える場所はなかったでしょうか、親分」 「待ってくれ、八、今お前は何とか言ったな?」  平次は立止りました。 「どこかで、そっと着換える場所は無かったでしょうか——と」 「それだ」  平次は豁然《かつぜん》としました。一切の不可能を取払った後に残るものは、それがいちおう不可能に見えても、可能でなければなりません。 「八、解った。お前もういちど花見をする気はないか」 「ようがすとも、親分」 「それじゃ飛島山へ行って、日の暮れるまで頑張ってくれ。あの昨日の騒ぎのあった桜の木の下だぞ——どんな事があっても動くな、よいか」 「親分は?」 「俺は少し訊き込みたい事がある。上野の暮れ六つが鳴ったら、王子の佐野屋の方へ下りて来い」 「ヘエ——」 「茶店から眼を放すな、——手前の姿なんか隠すことがあるものか。喉《のど》が渇いたら、時々あの老爺の茶店へ入って茶をもらうがよい」 「それっ切りですか、親分」 「そうそう、手前相変らず財布が空《から》だろう。飲まず食わずじゃ見張りもなるめえ、手を出しな」 「ヘエ——」  ガラッ八の大きな手の中へ、小粒を二つばかり落すと、平次はそのまま踵《きびす》を返して吉原の方へ行ってしまいました。  それから夕方まで、ざっと半日。  ガラッ八は根気よく桜の根っこで、老爺の茶店を見張りました。昨日の騒ぎを聞き伝えた人達は、物好き半分、桜の根と老爺の茶店に殺到して、この辺の混雑というものはありません。  ガラッ八は時々茶店へ行って、無駄話をしたり、茶を呑んだり、団子をつまんだり、用事のあるような無いような、取り止めのない顔で日暮れを待ちました。  やがて、雀色時《すずめいろどき》、桜の梢《こずえ》を渡って、上野の暮れ六つの鐘が鳴ります。 「爺《とっ》さん、左様なら、明日また来るぜ」  ガラッ八は愛想の好い老爺に挨拶して、軽い心持で山を降ります。 「八」 「ヘエ——」  どこからともなく現われたのは平次でした。 「ここで、しばらく様子を見るんだ」 「ヘエ——」  二人が物蔭に入って小半刻も経ったでしょう。 「見ろ、八」  平次の指す方を見ると、次第に斑《まだら》になった人を縫って、茶店の親父は山を降りて来ます。もう店を仕舞ったのでしょう、肩に担いだのはクルクルと巻いた毛氈《もうせん》が二三枚、片手に大きな箱を提げて、何のこだわりもなく百姓地の方へ入って行くのです。 「親分」 「シッ、今に面白いものが見られる、静かに後を跟《つ》けるんだ」  二人はそれっきり黙って、老爺の後に従いました。幸いの夕闇、一丁とも離れずに、楽々と後が追えます。  三河島のとある家、——貧しくも哀れな藁家《わらや》の入口へ老爺は足を停めました。  鍵も何にも掛っていなかったものか、ガタガタと戸を開けて入ると、火打ち鎌を鳴らして行灯《あんどん》に灯を入れ、骨を引抜かれたように、その行灯の傍に崩折れる老爺です。今まで年より達者に見えたのは、気が張っていたせいでしょう。 「御免よ」 「……」  老爺がギョッとした様子で顔を挙げました。片手は巻いた毛氈を犇《ひし》と掴《つか》んでおります。 「俺だよ、爺《じい》さん、驚かなくてもよい」 「……」 「虚無僧が山を降りた様子がないというと、お前の店へ飛び込んで着換えをしたはずだ。こんな解りきった事が、どうして今日まで俺に解らなかったろう」 「……」 「お前があんまり正直そうな顔をしていたからだ」     八  平次は静かに老爺の傍へ腰をおろしました。 「曲者——宗次郎を殺した虚無僧は背の高い男だった——と言ったのはお前だ。掛り合いが恐ろしさに、誰も口を出す者は無かったから、お前が自分の都合の良いように言えた。——俺は多勢の口から曲者は小男だったという話を聞くのに今日半日かかったよ」 「……」  老爺の眼は魚のように大きく見張られたまま、その手はワナワナと顫《ふる》ております。 「怨みのある宗次郎を殺すには、どこでもよいわけだが、多勢の見ているところで、こっちの顔を誰にも見せずに殺したかったろう——曲者の芝居気だ」 「……」 「幸い、飛鳥山のあの茶店の前で仇討の茶番をする話を聴いた。——お前は、前の日あの茶店を五両という大金を出して株を譲り受けたはずだ——それを聴き込むまでもなく、俺には何もかも解ってしまったよ。虚無僧の天蓋《てんがい》はどんな頭でも顔でも隠せるし、宗次郎を殺して茶店の裏から逃げ込んで、着物を換えるのは、ほんの煙草二三服の隙《ひま》で出来るからなア」 「……」  老人はガックリ首を垂れました。平次の論告を承服した姿です。 「天蓋と尺八と血刀と紋付は、持ち出しようがなくて一と晩あの茶店に隠しておいたはずだ。今日八五郎に見晴らせたのは、昼のうちに持ち出させないためだったよ」  平次の用意には寸毫《すんごう》の手ぬかりもなかったのです。 「親分さん、恐れ入りました。いかにも、宗次郎の野郎は、この老爺が手に掛けて殺したに違いございません。あれは、私の娘を殺しました。吉原《なか》で鳴らした芸者の小稲、去年の秋宗次郎に捨てられ、気が狂って自分の子を殺して、自分も身を投げて死んだことはお聞きでしょう」  老爺は板敷の上に双手《もろて》を突きました。 「それを詮索するのに半日かかったよ、爺《とっ》さん」 「お縄を頂戴いたします、親分さん」 「いや違う、宗次郎を殺したのはお前じゃない」 「親分さん、この私でございます。私一人でやった事でございます」 「いや違う、——宗次郎を殺した下手人は今晩にもここへ様子を見にくるはずだ」 「親分さん」  老爺はツト身を退くと、毛氈の中から一刀を引抜きました。 「あッ」  驚く間もなく、まだ斑々たる血潮のこびり付いたのを、自分の喉笛《のどぶえ》へ——。 「待った」  平次の手は辛くもそれを払い退けて、必死ともがく老爺の手から血刀を取り上げます。 「なア、爺《とっ》さん、——俺に下手人の解ったのはこういう段取りだ。油屋の兼吉が下手人の疑いを受け、言い解きようがなくなった時、——本当の下手人は俺を追っかけて、兼吉は下手人ではない、宗次郎は真物の虚無僧の敵持ちに、茶番と知らずに斬られた——と言ったよ」 「……」 「誰かを庇《かば》っているのかと思ったら、下手人は、無実の罪に落ちそうな兼吉を助けたかったんだ——俺はその心持をくんでやろうよ」 「……」 「下手人によく言うがよい。宗次郎は悪い野郎だ、血も涙もない奴だ。幾人もの男があの宗次郎に高利の金を借りて死んだし、幾人もの女は宗次郎の男前に引かされて一緒になり半年か一年で捨てられたり騙されたりして死んだ。——お前の娘、下手人の妹の小稲もお夏に見代えられて子供まで殺して死んだはずだ。宗次郎は鬼とも蛇とも言いようのない悪党だ」 「……」 「だが、どんな悪人でも、人を殺して済むものじゃない。——いまさら首を縊ったところで、腹を切ったところで追つくわけはないから、一番心を入れ換えて自首して出るか、坊主になるか、どっちかにするがよい——あの粋《いき》な潰し島田を剃り落すのは可哀想だが、首が無くなるよりはそれでも益《まし》だろう。妹の敵を討った気で済していては天道様の罰が当るぞ」 「親分さん」 「泣かなくたってよい、——女巾着切とか、何とか、御法の裏をくぐる稼業をするなら、この平次が承知しない——解ったかい、爺さん」 「……」 「お前からよく下手人にそう言って、明日にも決心のほどを俺に見せてくれるがよい」 「親分さん、有難うございます」  老爺はヘタヘタと土間に崩折れて、子供のように声を立てて泣き出しました。入口から射し入る青白い月、何やら鳥のようなものが、その先をサッと障《さえぎ》ります。 「さア、帰ろうか、八」  平次は立ち上がりました。 「よいんですかい、親分」 「よいとも、この上の事は神様がして下さるよ」  二人は肩を組むように、狭い戸口を出て、月の光を踏みながら、江戸の方へ辿《たど》りました。次第に夜の朧の中に消え込む二人の後姿を、老爺の藁屋の前に見送る二つの影がありました。  一つは泣き濡れた老爺、一つは、匂うばかりの若い女。  平次はこうして、また一つの手柄をフイにしてしまったのです。  蜘蛛の巣     一 「親分は? お静さん」  久し振りに来たお品は、挨拶が済むと、こう狭《せま》い家の中を見廻すのでした。一時は本所で鳴らした御用聞——石原の利助の一人娘で、美しさも悧発さも申し分のない女ですが、父親の利助が軽い中風で倒れてからは、多勢の子分を操縦して、見事十手|捕縄《とりなわ》を守りつづけ、世間からは『娘御用聞』と有難くない綽名《あだな》で呼ばれているお品だったのです。  取って二十三のお品は、物腰も思慮も、苦労を知らないお静よりはぐっと老けて見えますが、長い交際で、二人は友達以上の親しさでした。 「なんか御用?」  お静はお茶の支度に余念もない姿です。 「え、少しむずかしい事があって、親分の智恵を借りたいと思って来たんだけれど——」 「生憎《あいにく》ね、急の御用で駿府《すんぷ》へ行ったの、月末でなきゃ戻りませんよ——八五郎さんじゃどう?」 「親分がお留守じゃ仕様がないねえ。——八五郎さんにでもお願いしようかしら」  お品は淋しく笑いました。ガラッ八の八五郎の人の良さと、頼りなさは、知り過ぎるほどよく知っております。 「八五郎さん、ちょいと」  お静が声を掛けると、いきなり大一番の咳《せき》をして、 「お品さんいらっしゃい」  ヌッと長《な》んがい顔を出すのです。 「まア、八五郎さんそこにいなすったの。あんまり静かにしているから、気がつかないじゃありませんか」  お品は面白そうに笑うのでした。 「あっしでも間に合いますかえ」 「まあ、悪かったわねエ。——八五郎さんが来て下さると本当にありがたい仕合せで——」  ガラッ八は擽《くすぐ》ったく、首筋を掻くのです。でも、そんな事に長くこだわっている八五郎ではありませんでした。お品が事件の説明を始めるともう夢中になって、いっぱし御用聞の出店くらいは引き受ける気だったのです。  お品が持込んで来た事件というのは、お品の家とは背中合せの、同じ本所石原町に長く質屋渡世をし、本所|分限者《ぶげんしゃ》の一人に数えられている吾妻屋《あずまや》金右衛門が、昨夜誰かに殺されていることを、今朝になって発見した騒ぎでした。 「家の新吉が下っ引を二三人連れて行ったけれど、こね廻すだけで判りゃしません。そのうちに三輪の親分の耳にでも入ったら、どうせ黙って見ちゃいないだろうし、——本当に八五郎さんが行って下さると助かりますよ」  お品の調子はしんみりしました。 「うまく言うぜ、お品さん」  そんな事を言いながらも、八五郎はお品と一緒に石原町まで駈けつけていたのです。 「それでは八五郎さん」  吾妻屋の入口から別れて帰ろうとするお品。 「お品さんも現場を見ておく方がよいぜ」 「でも、私が顔を出しちゃ悪いでしょう。そうでなくてさえ娘御用聞とかなんとか、嫌な事を言われているんですもの——」 「近所付合いだ。見舞客のような顔をして行く術《て》もあるぜ」 「そうね」  お品は強《し》いても争わず、八五郎と一緒に吾妻屋の暖簾《のれん》をくぐっておりました。 「お、八五郎親分」  迎えてくれたのは利助の子分で、ともかくも十手を預っている新吉でした。 「たいそうな厄介な事があったんだってね。ちょっと覗かしてもらうぜ、新吉|兄哥《あにい》」  八五郎はひどく好い調子です。  吾妻屋金右衛門はその時六十一、生涯を物欲に委《ゆだ》ね切って、ずいぶん無理な金を溜めたためにさんざん諸人の怨《うら》みを買ったらしく、先年女房に死に別れ、放埓《ほうらつ》な倅を勘当して、娘のお喜多一人を頼りに暮らすようになってからは滅切《めっき》り気が弱くなり、ことに近頃は一種の脅迫《きょうはく》観念に囚《とら》われて、『誰か自分を殺しに来る』『俺はきっと近いうちに殺されるに違いない』と言いつづけている有様でした。  そんな事から日常生活が恐ろしく神経質になり、半歳ほど前からは、我慢がなり兼ねて、権現堂《ごんげんどう》の力松という男を用心棒に雇い入れ、自分は母屋《おもや》から廊下つづきの離屋《はなれ》の二階に住んで、娘と下女のお石と、番頭の周助と、用心棒の力松の外には、滅多な人間を寄せつけないような暮し方をしているのでした。     二  主人金右衛門の死骸は検屍《けんし》が済んだばかりで、二階の八畳に寝かしたまま、形ばかりの香華《こうげ》を供《そな》えて、娘のお喜多が駈けつけた親類の者や近所の衆に応待し、下女のお石は忙しそうにお茶などを運んでおります。  お喜多は豊麗な感じのする娘で、年の頃十九か二十歳、悲しみも窒息《ちっそく》させることの出来ない健康な美しさが、場所柄に似合わず四方に放散しましたが、下女のお石は二十四五の年増。蒼白《あおじろ》い顔が少し弱々しく見えますが、粗末な身扮《みなり》に似合わぬ美しさで、存分に装わせたら、お喜多に劣らぬ容貌《きりょう》になるでしょう。八五郎は咄嗟《とっさ》のあいだに二人の若い女を観察すると、死骸の側にいざり寄って、いつも親分の平次がするように、丁寧に拝んでから、顔を蔽《おお》うてある白い布を取りました。 「……」  思いのほか穏かな死顔です。六十一というにしては、ひどく頽然《たいぜん》としていますが、これが生涯金儲けに熱中して、石原の鬼と言われた人間の死顔とも思われません。  首筋のあたりを見ると、間違いもなく細紐《ほそひも》で締められた跡がありますが、それも至って薄く、首が畸形的《きけいてき》に伸びてない点など、自殺でないことは馴れた八五郎には一と眼でわかります。 「縄も紐もなかったよ。——自分でやったのじゃない」  新吉は注《ちゅう》を入れました。 「一番先に見つけたのは?」 「私でございます」  お茶道具を片づけていた下女のお石は、少し事務的にハキハキと答えました。 「どんな様子だった」  とガラッ八。 「何時ものように、南側の雨戸を開けて声を掛けましたが、お返事がありません。障子を開けてみると——」  お石はさすがに息を呑みます。 「床《とこ》の上にいたのか、それとも——」 「床から脱出《ぬけだ》して、その辺に」  長押《なげし》の下のあたりを指した手を、お石はあわてて引込めました。そこには娘のお喜多がしょんぼり坐っていたのです。 「どんな恰好で」 「お寝巻のまま、俯向《うつむき》になっていました」 「確かに俯向だろうな」 「え、さいしょは居眠りしていらっしゃるのかと思った位です」 「縄も紐もなかったのだな」 「えゝ」 「東側の窓は?」 「半分開いたままで、朝陽が一パイに射していました」  お石の知っているのは、それだけのことです。  いちおう間取りの具合を見ましたが、二階は八畳一間だけ。階下は母屋と廊下で繋《つな》がって、六畳と四畳半の二た間。四畳半は物置同様で、六畳には用心棒の力松が夜昼の別なく頑張っているのです。 「曲者はどこから入ったんだ」  ガラッ八が思わずこう言ったのも無理のないことでした。 「それだよ、八五郎親分」  新吉は八五郎の顔に拡がる困惑を享楽するように、階下から二階を案内します。二階の八畳は西と北が塞《ふさ》がって、南は縁側、梯子《はしご》でも掛けて内から雨戸を開けてもらわなければここからは入れそうもありません。 「雨戸は?」 「そこは念入りに閉めてあったそうだ。用心棒の力松と下女のお石と番頭の周助の口が揃うからこいつは疑いようはねえ。もっとも開けっ放してあったにしても、梯子でもなきゃその危い庇《ひさし》に飛びついて二階へ辿《たど》り着けっこはねエ」  新吉は狭くて高い庇《ひさし》や、梯子の跡などはない中庭の湿《しめ》った土などを指すのでした。二間ほどの空間を隔てて、向うは恐ろしく|やわ《ヽヽ》な忍び返し、恋猫《こいねこ》が踏んでも一とたまりもなく落ちそうです。 「こっちは開いていたんだね」  東の方は腰高窓、そこを開けると、これはずいぶん塀伝いに登れないことはありません。 「主人の金右衛門が癇性《かんしょう》で、どこか開いていなきゃ夜寝つけなかったというぜ」  新吉の言葉には妙に思わせ振りなところがあります。 「それじゃ、曲者はここから入ったと言っているようなものじゃないか」  八五郎の高くない鼻は少し蠢《うごめ》きます。 「ところが、窓いっぱいに張った女郎蜘蛛《じょろうぐも》の巣があるだろう」 「……」 「今朝来てみた時からそいつがあったんだ。どんな器用な曲者だって、蜘蛛《くも》の巣を潜《くぐ》っちゃ入れないよ」  ガラッ八は一言もありません。陽を受けてキラキラと光る美しい蜘蛛の巣は、こうなると金網よりも厳重に見えるのです。  残るのは梯子段が一つ、その下には用心棒の力松が、一と晩頑張っていたことに間違いはなく、力松が下手人でない限り、ここから曲者が忍び込むことなどは思いも寄りません。 「すると?」 「曲者《くせもの》は家の者だ——。それも主人の寝ている二階へ自由に出入りの出来るものは、番頭の周助か、下女のお石か、娘のお喜多か、用人棒の力松の外にはないことになる」  新吉は自分の智恵を小出しに見せつけて、ひそやかなる優越感にひたっている様子です。 「一番後で主人に逢ったのは?」 「力松だよ。——もっとも日頃丈夫でない主人は二三日前から寝たり起きたりしていたそうだ。現に昨日も気分が悪いからと、昼過ぎから床を取らせて、晩飯も抜きにしたというから、誰も日暮れ前から二階へは行かなかったらしい」  そう言われるといよいよ怪しくなるのは用心棒の力松です。     三 「た、大変ッ」 「親分、ちょいと来て下さい」  階下から、急に、遽《はげ》しい声。 「なんだなんだ」  八五郎と新吉が梯子段をころがるように降りて行くと、六畳では用心棒の力松を中心に、番頭の周助以下五六人の者が、何やら滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に揉《も》み合っているのです。 「力松が腹を切るって言うんです」 「止めて下さい。親分」  見ると大肌脱ぎになった力松の手から、五六人の者が匕首《あいくち》をもぎ取ろうと必死の騒ぎです。  草角力《くさずもう》の大関で、柔術《やわら》、剣術、ひと通りの心得はあるという触れ込みで雇われた力松が、刃物を持っているのですから、これは容易ならぬことでした。 「止せ。——止さないか、力松」  新吉が声を掛けると、力松はさすがにがっくり首をうなだれます。匕首はいつの間にやら奪い去られて、真夏ながら逞《たくま》しい大肌脱ぎが寒そう。 「相済みません。——でも親分方、旦那を殺したのは、なんと言ってもあっしの油断ですぜ。——高い給金をもらって、旦那の命を預っていながら、こんなことになっちゃ申し訳がねえ。せめて腹でも切らなきゃ」  力松はそう言って口惜《くや》しがるのです。一国《いっこく》らしい中年者で、田園の匂いが全身に溢《あふ》れるだけに、この男に嘘《うそ》があろうとは思われません。 「お前は本当に寝ているうちに曲者が二階へ登ったと思うのか」  八五郎は要領の良い口を出しました。 「そんなはずはないから、不思議なんで。あっしはね親分、ほかに取柄《とりえ》はないが、酒を飲まないのと眼敏《めざと》いのが自慢なんで——旦那がそれを見込んで年に十二両という高い給金を出して下さったんだ。梯子段の下に寝ているあっしの体を跨《また》いで、二階へ登ってあんな大それた業《わざ》をするのは、石川五右衛門だって出来ることじゃありませんよ。それに廊下の雨戸は上下の桟をおろした上、一々|閂《かんぬき》が入っているんですよ」  いま腹を切ろうとした力松は、勢いよく弁じ立てるのです。なるほどそういえば、力松に眠り薬でも呑ませない限り、この関所は通れそうもなく、よしんば力松を買収したところで、ここからさまで遠くない店の衆の寝息を窺《うかが》って、曲者を引き入れるのも容易な業《わざ》ではありません。 「それほど申し訳の筋が立つなら、腹を切るにも及ぶまい——ところでお前がここに雇われた筋道はどうなんだ」  新吉は一歩踏み込みます。 「あっしの叔母が、大旦那の里親だったんで、毎年の出代り時には、今でも叔母の子——あっしの従弟《いとこ》が吾妻屋の奉公人を引受けて、村から出します。番頭さんは江戸者だが、店中の者は皆んな同じ村の生まれですよ」 「そうか」  そう聴けば、力があって、少しは武術の心得のある百姓の倅力松が、並の雇人の三倍の給料で、用心棒に雇われてもなんの不思議もありません。  娘のお喜多は、ただおろおろするだけ、昨日の昼から父親に逢わないという以外には、なんの役に立つことも言ってくれません。  番頭の周助は五十年配の強《したた》か者で、商売には抜け目がないという評判ですが、主人の財産を殖やすと同じ率で、自分の貯蓄も殖やして行くほかには、さして悪巧《わずだく》みがあろうとも思われません。こんな男に取っては、主人の暖簾《のれん》と威光が何よりの頼りで、まさか金の卵を産む鵞鳥《がちょう》を絞め殺すほどの無分別者とは思われなかったのです。 「昨夜はなんか変ったことがなかったのか」  ガラッ八の一応の問いに対して、 「ヘエ、なんの変ったこともございません。旦那様はお加減が悪いということで、昼過ぎから離屋へ参るのを遠慮しておりました。店は戌刻半《いつつはん》〔九時〕頃に閉めましたが、それから帳合いをして私は亥刻半《よつはん》〔十一時〕ごろ家へ帰りました。——私の家はツイ背中合せの、石原の親分さんのお隣でございます」  念入り過ぎる答ですが、この言葉からは少しの怪しい節も見出されません。 「主人を怨《うら》んでいる者があったそうだが、誰と誰だ」 「さア、それは一々申すわけにも参りませんが——こんな商売をしておりますと、ツイ筋違いの怨みを買うこともございます」 「商売の外にも怨みを買ったそうじゃないか」 「ヘエ——」 「若旦那はどうしたんだ」 「若旦那の金五郎様は、親御様と仲違いなすって、木更津の御親類にいらっしゃいます」 「仲違い?」 「なんと申しても、お若いことですから」  番頭の周助も吾妻屋の事については容易に口を開きませんが、これは隣に住んでいる新吉から後で詳しく聴きました。  倅の金五郎の家出の原因というのは、少し遊び過ぎただけの事で、大した問題ではありませんが、それより吾妻屋にとって鬱陶《うっとう》しい問題は、ツイ地続きの隣に住んでいる、田島屋との紛紜《いざこざ》でした。田島屋というのは、二階の東窓から眼の下に見える小さい住いで、若い主人の文次郎はささやかな背負い呉服を渡世にしておりますが、昔は吾妻屋と並んだ町内の分限《ぶげん》で、死んだ先代の頃、吾妻屋と組んで仕入れた上方の織物で大きな損をし、吾妻屋が巧みに逃げたために、一人で引受けて身代を潰《つぶ》したのだと言われております。  そのうえ文次郎と吾妻屋の娘お喜多が許婚《いいなずけ》の仲だったのを、田島屋がいけなくなると、吾妻屋金右衛門方から反古《ほご》にし、近頃は文次郎を寄せつけないばかりか、往来で逢っても口もきかないので、文次郎はひどく吾妻屋を怨み、『折があったら、あの親仁《おやじ》を叩き殺す』とまで放言していたというのです。  二十八になって、背負い呉服屋に身を落した上、お喜多との仲まで割かれた文次郎は、血の気の多い男で、ずいぶんそれ位のことはやり兼ねないように、町内の人達からも思われているのでした。     四  翌る日、石原町へ行ったガラッ八は、思いも寄らぬ事件の展開を聴かされました。 「八五郎親分、困ったことになったぜ」  新吉は言うのでした。 「何がどうしたんだ」 「三輪の万七親分が乗り出して、用心棒の力松を縛って行ったよ」 「ヘエ——、証拠があがったのかい」 「証拠のないのが証拠だというんだ。二階の南側の縁側からは入れず、東窓にはでっかい蜘蛛の巣があるから、曲者は梯子《はしご》を登って行ったに違いない。梯子の下には力松が夜っぴてとぐろを巻いているとすると、下手人は力松の外にないというんだ」  新吉もこの理論には争いようがなかったのです。 「それだけのことか」  とガラッ八。 「だから変じゃないか」 「力松は何が望みで主人を殺したんだ。年に十二両という大金を下さる主人だぜ」 「俺もそう言ったが、万七親分は、力松の野郎は纏《まと》まった金でも欲しかったんだろうというんだ。ところが纏った金は離屋の二階などにおくはずはない。金右衛門は身近に刃物とか金をおくことが大嫌いだったんだ。万一悪者が忍び込んで、それを使ったり、それを使われたりしちゃ困るというんだそうだよ。金は皆んな土蔵の中の恐ろしく巌丈な金箱に入れて、一々念入りに錠をおろしてある」 「それでも力松が下手人《げしゅにん》だというのか」 「三輪の親分には、別に考えがあるんだろう。それにしても口惜《くや》しいじゃないか、こんなとき銭形の親分がいてくれたら」  新吉はつくづくそう言うのです。ガラッ八の八五郎では、なんとしても力になりません。 「気にするなってことよ、こっちで本当の下手人を挙げりゃいいんだろう」 「それだよ。——俺は隣の——田島屋の文次郎が怪しくて仕様がないんだが」 「そいつを当ってみようじゃないか」 「吾妻屋のために大きい身上をフイにして、親父はそれを苦にして死んでいるんだ。その上お喜多との間を割かれて——あの気性じゃ、黙っているのが不思議でたまらない」 「……」 「その上、あの日の昼頃、文次郎は裏の空地でお喜多と逢引している。——あの晩、忍び込んでひと思いにやらないとは限るまい、空地の上はすぐあの東窓だ」 「蜘蛛の巣はどうなるんだ」 「その蜘蛛の巣が、新しくてやけに丈夫だ」  新吉はまた、蜘蛛の巣に頭を突っ込んでしまったのです。 「ともかく、文次郎に逢ってみようじゃないか」  ガラッ八は新吉を誘って、文次郎の貧しい家を訪ねました。  背負い呉服の細い商売で、辛《から》くも母一人養っている文次郎は、二人の御用聞の顔を見ると、あわてて外へ飛び出して、 「親分さん、後生《ごしょう》だからお話は外で願います。年を老《と》ったお袋に苦労をかけたくはありません」  と手を合せぬばかりにするのです。  二十七八の苦味走った好い男、血の気の多い気象者らしいところはありますが、それでも年寄りの母の気持を考えて、御用聞を外へ誘い出すといった心やりはあります。 「あの日お前はお喜多さんと逢っていたそうじゃないか」 「ヘエ——」  新吉の問いは露骨です。 「まだお前達は付合っていたのか」 「ヘエ——、面目次第もございません。——親御(金右衛門)のお許しがあれば、いつでも一緒になる気でおりました」 「お前は吾妻屋を怨んでいたろうな」 「ヘエ——」  お喜多の父親に対する怨みも憤《いきどお》りとも、親しさとも憎さともつかぬ不思議な心持に悩んでいる文次郎はなんと言ってよいか迷った様子です。 「あの晩お前はどこへ行っていたんだ。夕方から留守だったそうじゃないか」 「少しばかりの掛《かけ》を集めて、あんまり汗になったから途中でひと風呂入って戻りました」 「掛は、どことどこで集めたんだ。——風呂はどこのだ」 「さア」  文次郎は困惑した様子です。 「数の多いことですし、度々のことで、よくは覚えてはいません」 「思い出しておくがよい。その証拠が立たなきゃ、お前にも人殺しの疑いが懸るよ」 「……」  文次郎の顔はサッと血の気を失いましたが、それっきり口を緘《つぐ》んでしまいました。  蜘蛛の巣さえなければ、この男を助けておくのでは無かったといった不思議な焦燥《しょうそう》が、新吉の胸をさいなみ始めた様子です。     五  鬱陶《うっとう》しい日がつづきました。親分の銭形平次はまだ帰らず、お静を相手の留守番には八五郎の叔母が行ってくれましたが、石原町の吾妻屋殺しの方は一向目鼻もつかなかったのです。三日目の昼頃。 「八五郎さんは」  飛び込んで来たのは、『娘御用聞』のお品と、田島屋文次郎の母親でした。 「お品さん、なんか変ったことでも——」  八五郎は頼まれた事の埒《らち》のあかないのに気を腐らせながらも、大して極《きま》り悪がる様子もなく顔を出しました。 「新吉が文次郎さんを縛ってしまいましたよ、おっ母さんに泣き込まれて、私も弱ってしまいました。新吉へかれこれ言うわけにも行かず、そうかといって田島屋のお母さんとは、お隣付合いで、子供の自分からお世話になっているし」  お品はよほど困った様子です。その後から、 「八五郎親分、倅を助けて下さい。倅は気の早い男だけれど、お喜多さんのお父さんを殺すようなそんな悪い人間じゃありません。新吉さんは——あの晩、倅がどこにいたか、はっきりしないから怪しいって言うそうだけれど、私はよく知っております。倅はお喜多さんに呼び出されて、裏の空地で話していたんです」  涙ながらに言う老母の言葉の、妙に辻褄の合った真実性が、八五郎の胸に堪《こた》えます。 「よし、行ってみるとしよう。なんかの間違いだろう」  飛び出した八五郎は、一気に石原町へ——、利助の家には、幸い新吉もおりました。 「新吉兄哥、大変なことをやったんだってね」  八五郎の調子は頭ごなしです。 「何が大変」  新吉は少し屹《きっ》となりました。 「文次郎を挙げたそうじゃないか。——あの男は下手人じゃあるまい、現に蜘蛛の巣——」 「俺もあの蜘蛛の巣に頭を突っ込んで、三日というものを無駄に過ごしたんだ。ところが、その間に三輪の万七親分は、力松を責めて口書を取ったという話もある。うっかりしていると、どんな事になるかもわからない」  石原の利助の病躯《びょうく》を助けて十手捕縄を預っている若い新吉にしては、それくらいのあせりのあるのは無理のないことでした。 「それでも蜘蛛の巣が——」 「蜘蛛の巣は——八五郎親分も知ってのとおり、新しくて綺麗だった。前の晩張ったものに違いない——あの辺は陽当りが良いから、どうせ陽のあるうちに蜘蛛は働く気遣いはない。八五郎親分にこんな事を言うのは変だが、蜘蛛が巣を張るのは大抵夕方薄暗い頃だ。あの巣だって昼のうちは無かったに違いない——ということに気がついたんだ」 「……」 「文次郎は薄暗くなるのを狙って、蜘蛛が巣を張る前にあの東窓から入って、吾妻屋を殺して脱出した。それで何もかも解るじゃないか。ね、八五郎親分」  新吉の顔には蔽《おお》い切れない得意の色が漲《みなぎ》ります。ガラッ八の八五郎は、指を咥《くわ》えて引下がるほかはありません。蜘蛛の習性に通じなかったのがなんとしても八五郎の手ぬかりです。がしかしこのまま帰って、まだ吉左右《きっそう》を待っているはずのお品と文次郎の母親に顔を合わせたとき、一体どんな事になるでしょう」 「こいつは弱ったなア」  見掛けに寄らぬ弱気の八五郎は、神田に帰るに帰られず、そのまま、ろくなお小遣もない癖に、親分の平次を迎いに、品川の方へ辿《たど》っておりました。駿府へ行った平次は、今日か明日は帰らなければならなかったのです。  川崎で平次に逢った八五郎は、そのまま有無《うむ》を言わせず、石原町へ引っ張って行きました。 「待ちなよ、なんという事だ。長い旅から帰ったばかりじゃないか。女房も待っているだろうし、こんな顔でも見せて安心さしてよ、それから出直したところで遅くはあるまい」  そんな事を言う平次も、とうとうガラッ八の熱心に負けてしまった事はいうまでもありません。  吾妻屋へ旅装束《たびしょうぞく》のままで行った平次は、内外の様子を念入りに見た上、一人一人を呼び出して、離屋の二階で調べました。中でも下女お石とお喜多が念入りで、これはざっと小半刻ずつ、一通りそれが済むと、奉公人から娘お喜多の手廻りの品を見せてもらい、お喜多の持物の中から、中程で引きちぎった紅鹿《べにか》の子《こ》縮緬《ちりめん》の扱帯《しごき》を一本取り出し、それを預ってさっさと神田へ引揚げたのです。  自分の家へ帰って、ひと風呂浴びて来て、久しぶりで一本、女房の酌《しゃく》で始めたところへ、我慢のならぬガラッ八が顔を出しました。 「親分、石原町の吾妻屋殺しはどうなったんです」 「心配するな、もう解ったよ」 「下手人は」 「これだよ」  平次が袂《たもと》から取り出したのは、眼の覚めるような紅鹿の子の扱帯。 「その扱帯が犯人?」  八五郎の驚きようはありません。 「そうだよ。——お前には解るまい、ざっと話そう。力松が下手人なら、偽の証拠をうんとこしらえておくよ。庭へ梯子を持出すとか、二階の雨戸を外して置くとか。——そんな事でもしなきゃ、疑いは真向から自分へ来るじゃないか」 「……」 「文次郎はあの晩東窓の下の空地でお喜多と逢引していたんだ。どこにいたか言われなかったはずさ。あの男は好きな女の父親を殺すほどの悪人じゃない。——それに蜘蛛の巣は夕方明るいうち張り始める。八方から見通しの二階の東窓へ、蜘蛛が巣を張り始める前に人間が忍び込むなどは思いも寄らない。新吉兄哥は考え過ぎたのだよ」 「すると」 「下手人はこの扱帯《しごき》さ。——吾妻屋の金右衛門はさんざん人を泣かせた酬《むく》いで、年を老《と》って気が弱くなったんだ。『誰かに殺されそうだ』と言いつづけていたのは、正気の沙汰ではないよ。——そのうえ倅の勘当や女房の病死ですっかりこの世がいやになり娘のお喜多がなんかのはずみで忘れて行った扱帯を見ると、この燃えるような美しい鹿の子絞りに引かれて、フラフラと死ぬ気になった。——金右衛門はときどき自分で死ぬ気になる事があったんだ。金右衛門はそれが怖《こわ》くて、羽物や紐類を身近に置かなかったんだ」 「すると」 「長押《なげし》に扱帯をかけて首を吊ったのさ——よく見ると長押には扱帯で擦《す》れた跡があったよ。——が、扱帯が弱いのですぐ切れた。金右衛門は下へドタリと落ちるはずみに、弱っていた心の臓を破ったんだ(心臓破裂)、それっきりさ。死骸の喉《のど》の跡が薄かったのも首の伸びていないのもそのためだ」 「切れた扱帯はどうしたんです、親分」 「翌る朝あの部屋へ一番先に入った下女のお石が隠したのさ。見覚えのあるお嬢さんのお喜多の扱帯で主人が絞め殺されていると思い込んだんだ。何がなんでも、こいつは隠さなきゃなるまいと思った」 「力松や文次郎が縛られて黙っていたのは?」 「二人とも万に一つ処刑《おしおき》になるような事はあるまいと多寡《たか》をくくったのさ。あのお石という女は妙に行届いた女だよ。もっともお喜多と逢引する文次郎が憎かったのかも知れない——若い女の心持は、俺達には謎だよ」 「するとどうしたものでしょう」 「放っておくがよい。お石じゃないが力松と文次郎はもう帰るだろう。帰らなきゃ明日にも八丁堀へ行ってやろう。三輪の親分や新吉兄哥に強《し》いて恥をかかせたくないが——それより差し当ってお静を口説いてもう一本つけさせる工夫をしよう。お前も付合ってくれ、なア八」  平次は杯《さかずき》をあげて、カラカラと笑うのでした。下手人を出さなくていかにも良い心持そうです。  妹の扱帯《しごき》     一 「親分、凄いのが来ましたぜ。ヘッ」 「何が来たんだ。大家か借金取りか、それともモモンガアか」  庭木戸を弾《はじ》き飛ばすように飛び込んで来たガラッ八の八五郎は、相変らず縁側にとぐろを巻いて、閑々《かんかん》と朝の日向を楽しんでいる銭形平次の前に突っ立ったのです。 「そんなイヤな代物《しろもの》じゃありませんよ。その辺中ピカピカするような良い新造」 「馬鹿だなア、涎《よだれ》でも拭きなよ、みっともない、——お客様なら大玄関から通すんだ。いきなり木戸を開けて、バァと長んがい顎《あご》を突き出されると、肝《きも》をつぶすじゃないか」  口小言をいいながらも平次は、煙草盆をブラ下げて、部屋の中へ入りました。平次のいわゆる大玄関へは女房のお静が出て、物柔らかに女客を招じ入れた様子です。  やがて通されたのは、十七八の可愛らしい娘で、八五郎の前触れほどの|きりょう《ヽヽヽヽ》ではありませんが、身形《みなり》もよく物腰も上品で、なんとなく好感を持たせるところがあります。 「銭形の親分さん? でしょうね」  娘は高名な銭形平次が、思いのほか若いので、しばらくはきり出し兼ねた様子です。 「俺は平次だが、なにか変ったことでもあるのかえ。たいそう遠方から駈けて来なすったようだが」  娘の息づかいや、二月の朝というのに、白い額が心持汗ばんでいるのを見て、早くもそんなことを訊いてみるのでした。 「巣鴨《すがも》から参りました。姉が殺されていたんです。そして私は縛られそうだったんです」  娘心に、この危急を救う者は、銭形平次の外にはないと思い込んだのでしょう。明神様の近所と、うろ覚えを辿《たど》って、往来で道を訊いた何人目かが、向柳原からフラリとやって来たガラッ八だったのは、なんという運のよさでしょう。 「それは大変だ。詳しく話してみるがよい」  平次の調子は柔かで深切でした。 「私はあの、巣鴨の梅の屋の者ですが——」 「梅田林右衛門様のお嬢さんでしたか、道理で——」  平次がそういったのも無理のないことでした。巣鴨仲町の梅の屋というのは、梅田林右衛門という御家人上がりで、両刀を腰にブラ下げて歩く、不徹底な生活に見きりをつけ、故郷の駿府からいろいろの土産を江戸に運んで売り拡め、多分の利潤をあげて、一代に何万という身上《しんしょう》を築いた男だったのです。 「父は去年の春、亡くなりました。跡取りの姉は、この春には父親の年忌を済ませて、祝言をすることになっておりましたが、それが昨夜、人出にかかって死にました」  娘は姉の末期《まつご》の痛々しい姿を思い浮かべたものか、我慢の堰《せき》を切ったようにどっと涙が頬を洗うのです。 「それから?」 「それっきりでございます。庚申塚《こうしんづか》の寅松《とらまつ》親分が来て、ざっと調べたと思うと、いきなり私を呼びつけるじゃございませんか——私はなんの気もなく行こうとすると、源三郎さんが留めて、寅松親分は、お前を縛る気でいるから、奥へ行かない方がよい。このままそっと裏口から飛び出して、神田明神下の銭形の親分さんのところへ行って、お願いしてみるがよい。銭形の親分は江戸開府以来と言われる捕物の名人だから、きっと真実《ほんとう》の下手人を捜して下さるに違いない——とこう言ってくれました」  一生懸命に、——娘は涙を納めてこう説明するのでした。 「源三郎というのは? 誰だえ?」 「萩源三郎様、——やはり御浪人でございます。二本差しがいやになったからと、二年ばかり前から店を手伝っておりますが、父の遠縁の者でございます」 「それっきりか」 「姉の許婚《いいなずけ》のように思われておりました」 「本当の許婚ではなかったというのか」 「いえ、やはり許婚で。この春、姉と祝言することになっていたのは、その源三郎さんでございます」 「よしよし、あとは現場を見なきゃわかるまい、八、一緒に行くか」 「先刻から待ちくたびれていますよ」  八五郎は袷《あわせ》の裾《すそ》を七三に端折って、スタートに並んだ選手みたいに鼻の穴をふくらませているのでした。     二  平次が巣鴨仲町の梅の屋へ行った時は、検屍も済んでお葬《とむら》いの支度に忙しく、その中に土地の御用聞の庚申塚《こうしんづか》の寅松がたった一人、妹娘のお君に逃げられた腹立ち紛《まぎ》れに、誰れ彼れの見境なく当り散らしている真っ最中でした。 「あ、銭形の親分。その娘をつかまえて来てくれたのか」  寅松は遠方から平次を見つけて、救われたような心持で飛んで来ました。この一見なんの変哲もない梅の屋の総領娘殺しの事件は、第一番の容疑者の妹娘が逃げ出すと、あとは混乱が残るばかりで、五十男の押しと強さでやり通している寅松では、全く手のつけようもなかったのです。 「庚申塚の親分、この娘は逃げも隠れもしたわけじゃないよ。神田まで俺を迎えに来たんだ」  平次は言い難《にく》いことではあるが、妹娘お君のためにこう弁解してやる外はありませんでした。 「そいつは御信心なことだ——もっともここにいれば、俺は縛る気になったかも知れないよ」  年配の寅松は、平次の腕の聰明さに敬服して、こんな調子に物を考える気の良い男だったのです。 「ところで、中へ入っていろいろの事を見聞きする前に、庚申塚の親分の考えをひと通り聞かしてもらいたいが——」  平次は妙なことを言うのです。現場の実際を自分の眼で見て、自分の観点に立ち、自分で焦点を合わせるのが、平次の日頃の行き方ですが、庚申塚の寅松の気の良さに打ち負かされて、ここでは一番寅松を立てて、蔭の仕事をしてやろうと、平次らしく思い定めたのでしょう。 「それじゃともかく俺の見ただけのことを話そう。土地の者だけに妙なことに気がつくかも知れない」  寅松はそんなことを言いながら、巣鴨仲町の一角を占むる梅の屋の大きな店構えを指しながら語りつづけるのでした。 「——梅の屋が、梅田林右衛門という浪人者の仕上げた身上だということは、銭形の親分も知っているだろう。——その林右衛門が死んで、後には何万両という身上が残ったが、番頭の七兵衛というのが強《したた》か者で、世間から悪七兵衛とかなんとか言われながら、貧乏揺ぎもさせずに商売を続けている——」 「その悪七兵衛という番頭は腹の黒い人間ででもあるのか」  平次はツイ口を挟みました。 「腹の底まではわからねえが、梅の屋の白鼠には違いあるまいよ。もっとも先代林右衛門が二本差しだった頃からの用人で、女房のお元はこれも亡くなった林右衛門の内儀《おかみ》とは乳姉妹の間柄だったというが」 「それから」  平次は先を促《うなが》しました。 「林右衛門の忘れ形見の娘が二人。姉はお袖《そで》といって二十歳、少し病身ではあったが、これは大したきりょうだよ。妹はお君と言って十七、銭形の親分を迎えに行った娘で——可愛らしくはあるが姉ほどのきりょうじゃない」 「その妹娘のお君を縛る気になったのはどういうわけだ」  平次はいきなり事件の核心に話を持ってゆきました。 「殺されたお袖の首に、妹の扱帯《しごき》が巻き付いているんだ」 「あの娘が、物もあろうにわざわざ自分の扱帯で姉を殺したというのか」 「いや、それだけなら俺も妹娘を縛る気にならなかったが、お袖が死んだのは、その扱帯のせいじゃないんだ。体の弱いお袖が、寝るとき煎薬《せんやく》を飲むことになっているんだが、その薬の中に、毒が入っていたのだよ。毒はなんだかわからないが、検屍に立会った本道〔内科医〕も、毒害に違いないと言っているとしたらどうだ」 「……」 「その煎薬は妹のお君がこしらえて、人出にかけずに、自分で持って行って姉に呑ませたのだよ」 「なるほど、話はこんがらかって、俺にもよくわからない——いちおう現場を見るとしようか」     三  店へ入ると、帳場格子の中で、この騒ぎも知らぬ顔に算盤《そろばん》を弾いていた四十七八の真四角な顔をした男が、平次と八五郎の顔を見て、遠くの方から丁寧に黙礼しました。 「あれが悪七兵衛だよ」  寅松の囁くのが聴えないはずはないのですが、当の七兵衛は苦《に》んがりともしません。  店から奥へ、それは小大名の下屋敷ほどの構えでした。  その奥まった一と間に、姉娘お袖の死体が、ようやく検屍が済んだばかりで、まだ入棺もせずに寝かしてありました。床の左右にいるのは、妹娘のお君——平次を迎えて一と足先にここへ来たのと、もう一人は若い逞《たくま》しい男。 「源三郎さんだよ」  と寅松に名を呼ばれて、静かに顔を挙げました。鳳眼隆準《ほうがんりゅうせつ》という形容詞をそのまま擬人化したような、色白の立派な男です。 「……」  源三郎は平次を迎えると、それも卑下《ひげ》しない程度に目礼して、死体の側を離れました。武芸も相当にはいけるらしく、背は低い方ですが、四肢の発達は見事で、人の顔を迎えたとき、自然に眼尻に愛嬌のこぼれるのは、場所柄少しばかり不似合いに感じさせます。  平次はいざり寄って、死顔に近々と首を垂れると、静かにそれを覆った白い巾《きん》を取りました。  ハッと息を呑んだほどの凄愴《せいそう》な美しさです。細面《ほそおもて》に藍色の隈、紫色になった唇、すべて毒死によくある痛々しい苦悶を刻んで、二た眼とは見られない凄まじさですが、それにしても、本来の美を奪うに由《よし》なく、その破壊された表情の底から、いうにいわれぬ不思議な美しさが覗いているのです。 「可哀想に——」  平次は死骸の顔に、もとのとおり白い巾をかけてやって、寅松を振り返りました。馴れた者の眼にも、こんな痛々しい死骸は滅多に見ることはありません。 「ところで、これが首に巻きつけてあったんだが」  寅松は平次に注意するように、床の側に置いてあった、紅い鹿《か》の子絞《こしぼ》りの扱帯を取り上げました。  真紅の蛇のようにひと|うねり《ヽヽヽ》して、寅松の無骨な手から、だらりと下がった扱帯を見せつけられると、背後にいたお君がハッとした様子で顔を反《そむ》けたのも無理のないことでした。 「銭形の親分」  源三郎は思いきった様子で平次に声をかけました。 「……」  黙って顔を挙げた平次に、冠《かぶ》せるように、 「親分は気がついているだろうが、お袖さんはその扱帯で殺されたわけじゃありませんよ。御覧のとおりお袖さんの首にはなんの跡も付いてはいない。死んでからその扱帯を巻いた証拠だ」  源三郎は気ぜわしく言うのです。武家育ちの二十七八の青年は、町人風にはなり切っていても感情が激して来ると、ついもとの武家気質が出て来る様子です。 「死んだ者の首に扱帯を巻いたのは、どういうわけか——あっしはそれが不思議でたまらない」  平次は独り言ともなく言います。 「下手人の疑いを、その扱帯の持主にかけるためだ——現に庚申塚《こうしんづか》の親分は、お君さんを縛ろうとしたようだが」  源三郎は昂然として言うのです。 「昨夜、お袖さんに煎薬《せんやく》を呑ませたのは、妹のお君さんだと聴いたからだ。俺はその始末が知りたかったのだ」  寅松は振りきるように抗議します。 「まアよい。お上の御用を承わる者には、それだけの用意があるものだ——庚申塚の親分でなくたって、いちおうお君さんの言い訳は聞かなきゃなるまい。今朝誰が一番先に騒ぎ出したか、——昨夜誰と誰がどんな事をしたか、まずそれから順序立てて聴こうじゃないか」  平次は寅松の面目を立ててやりながら、調べの軌道に輪を載せて行きます。     四 「姉さんが殺されているのを見つけたのはお元でした。大きな声を出したので、びっくりして、私と源三郎さんが、鉢合せをしそうに飛んで来たのです」 「お元?」  妹娘お君の説明にフト平次は腰を折りました。 「番頭の七兵衛の配偶《つれあい》だ、それから」  寅松は注を入れて先を促します。 「それっきりで——」  お君の大きな眼が、脅《おび》えきって何やら訴えております。 「昨夜この家にいたのは?」 「皆んなおりました。七兵衛も、お元も、手代の喜八も、下女のお百も、小僧の佐吉も、それから私も——」 「私だけは折あしく春日町の親類へ参り、話に更けて、今朝起きぬけに帰りました。フト用事を思い出して、昨夜暗くなってから行ったので」  そういう萩源三郎はいかにも口惜しそうでした。自分の留守のために、大事な許婚が人手に掛かって死んだと思い詰めている様子です。 「その御親類というのは?」 「丸山要人《まるやまかなめ》、小身ながら直参で、私の叔父に当ります」 「時刻は?」 「春日町へ着いたのは、戌刻《いつつ》〔八時〕少し過ぎと思いますが——」  平次が後ろを振り返ると、縁側に待機していた八五郎は、サッと飛び出した様子です。春日町まで行って、源三郎の不在証明《アリバイ》を確めて来るつもりでしょう。 「ところで、姉さんは平常《ふだん》から身体が弱かったのか」  平次はお君の方を見て話題を改めるのでした。 「寒いうちは、ブラブラする日が多く、春になると元気になりました」 「薬はどこから取ったのだ」 「町内の見庵様《けんあんさま》が、癆症《ろうしょう》になるといけないから、毎日体に精をつける薬を呑むようにって、煎《せん》じ薬を下さいました」 「その薬はまだ残っているだろうな」 「え、お勝手の棚にあるはずです。持って参りましょうか」 「いや、——済まないが寅松親分に頼もう。残った煎薬と、それから昨夜呑んだ煎じ滓《かす》と鍋と、湯呑と——」 「鍋も湯呑も洗ってしまったそうだよ。煎じ滓までは気がつかなかったが、どこかに棄てたにしても、無くなるはずはない」  寅松はそう言って気軽に立って行きます。 「その薬は毎日誰が用意するのだ」 「お元か、下女のお百が煎《せん》じてくれますが、姉さんの部屋へ持って行くのは私の仕事になっております。——姉さんが薬を呑んで温たまって、床に入るのを見届けて、私は自分の部屋に引き取ります」 「昨夜《ゆうべ》もそのとおりの手順を運んだに違いあるまいな」 「……」  お君は黙ってうなずきました。  ちょうどその時でした。お勝手の方にただならぬ騒ぎが始まったらしく、押しつぶされた人の声と、駈け回る足音が入り乱れて、その騒ぎの中から外《そ》れ玉のように、少し取り乱した寅松が飛んで来たのです。 「大変」 「どうしたのだ、庚申塚の親分」 「下女のお百がやられた。少しの油断だったよ。医者を迎えにやったが、——ともかくも見てくれ、息を吹き返しそうもない」  言い捨てて引返す寅松の後から、銭形平次も苛立《いらだ》たしい心持で蹤《つ》いて行く外はなかったのです。  下女のお百の部屋というのは、お勝手のすぐ隣の四畳半で、そこにはもう二三人の男女が、ウロウロ立騒《たちさわ》いでおりますが、虚空《こくう》を掴んで窓寄りに倒れているお百の死体には、掛り合いを恐れたか、その不気味さに脅えたか、一人も近づく者はありません。 「これだよ、銭形の」 「うん、あの娘《こ》と同じことだ。毒を呑まされて、それから前掛の紐《ひも》で首を締められている、——惜しいことに四半刻《しはんとき》〔三十分〕の手遅れだ」  浅ましく踏みはだけた手足は、時候のせいか少し冷えて、もはや呼び生ける術《すべ》もありません。  お百という下女は、二十五六の丈夫そうな女ですが、猛毒に抗しつづけた生命の悩ましさを刻んで、顔は醜《みにく》い上にも無気味に歪《ゆが》んでおります。 「こんどは首に紐の跡があるぜ」  寅松はさすがに気がつきます。この死骸とお袖の死骸とは、おびただしい相似の点を持っている癖に、お袖の首には、扱帯で締められた跡が少しも残っていないのに、下女の首の廻りには、明らかに細紐で締めた跡の印されているのはどうしたことでしょう。 「この前掛は誰のだ」  平次は死骸の首から解いた前掛を後ろに立塞《たちふさ》がっている多勢の者に見せました。ありふれた紬《つむぎ》の前掛ですが、紐はその頃は野暮になった茶色の真田《さなだ》で、誰の眼にも特色がよくわかります。  廊下に溢れる人達は、一瞬シーンとなりました。と、その後ろの方から、 「ちょっと見せて下さい。私の前掛によく似ていますが」  声を掛けて進み出たのは、お袖の許婚《いいなずけ》の萩源三郎でした。多勢の顔は機械人形の集団のように源三郎の方に振り向きましたが、当の源三郎は大して気にする様子もなく、平次の手から前掛を受取って、 「——これはやはり私の前掛だ」  よくも見ずに言いきるのでした。 「こんどはお袖の首に巻き付いた扱帯と違って、その前掛の紐でお百は殺されているんだぜ」  すぐ寅松は付け入ります。 「そんな馬鹿なことが——」  源三郎はそう言いながら、窓際に寄ってお百の凄まじい死骸——わけてもその首のあたりを見ております。 「どうだ、首には深く紐の跡が着いてるだろう、文句はあるめえ。お袖と違って、お百は丈夫だから毒を呑まされても、ジタバタもがき廻ったんだろう。人に知られると面倒だから、下手人は自分の前掛で喉を絞めて、ひと思いに息の根を断ったに違いあるめえ、——なア、銭形の」  寅松はさすがに自分の判断に自信が持てなかったものか、後ろに黙って考えている平次を顧《かえり》みました。 「その前掛を見せてくれ——自分の前掛で殺した曲者が、証拠の品を放って行ったのは変じゃないか。隠そうと思えば隠せたはずだ。丈夫そうな女を一人絞め殺すほど肝《きも》のすわった奴だ——」 「うっかりしていたんだよ。それが手ぬかりというものだ、天罰だ」  寅松はもう、源三郎の袖をしかと掴んでおります。相手は武家上がりだろうが、なんだろうがこれほど確かな証拠を見せ付けられて引っ込んでいる寅松ではありません。 「待って下さい、庚申塚の親分、——私は人に聴いたことだが、締め殺してしばらく放って置くと絞めた紐の跡が浮き出るということだ。お百の首の跡は本当にこの真田紐だろうか」 「何を?」 「それ、このとおり、お百の首に付いている跡は、太い細引きの跡だ、——手の混《こ》んだ真田紐の跡じゃない。小指ほどの細引、そんなものがここにないでしょうか、親分」  源三郎の抗議は、いかにも整然として行届いております。平次はそれを聞くと、後ろの押入れをサッと開けました。すぐ眼についた行李《こうり》の上の麻の細引、それを取って寅松と源三郎の前に投《ほう》ったのです。     五 「お前は?」 「私の|つれあい《ヽヽヽヽ》でございます」  四十前後の狐のような感じの女を廊下から呼び入れると、その後から支配人の七兵衛がむずかしい顔から絞り出したような、怪しい世辞笑いを浮かべて入って来ました。 「お百の殺されているのを、誰が見つけたのだ」 「私でございます。検屍のお役人方が帰って、半刻も経っているのに、お百が姿を見せないので、もう昼の支度をしなきゃなるまいと思って、この部屋を覗くと——」  お元はごくりと固唾《かたず》を呑んで絶句するのです。 「朝のうちは、変りがなかったのか」 「あの騒ぎで、驚いたようでしたが、でも、いつもと少しも変りませんでした」 「食物は皆んなと同じものだろうな」 「え、お嬢さん方と源三郎さんは一緒で、私共はあと皆んな御一緒に頂きます」 「それではお百の食物にだけ、毒の入る隙がないはずだと思うが、どうだ」 「はい」  お元はこれ以上は想像もつかぬ様子です。 「この半刻の間、お前はどこにいたのだ」 「店とお勝手と奥と駈け廻っておりました。御近所の方も見えますし、お葬いの支度もしなきゃなりません」 「その忙しい中で、お前さんは帳場に坐っていたようだが、商売の方が、そんなに忙しいのか」  平次の問いは、思いもよらぬ飛躍を遂げて、女房の後ろに不安そうに突っ立っている支配人の七兵衛に向いました。 「そんな訳じゃございませんが、——跡取りのお嬢さんが亡くなると、いちおう帳面の締括《しめくく》りもつけて置かなければならず、それに葬い万端の費用のことも考えなきゃなりません」 「たいそう手廻しなことだ——」  平次は皮肉のように言って、スッと廊下に溢れる顔を見渡しました。ほかに事件に関係のありそうなのは、若い男が一人、二人。 「お前は?」 「佐吉と申します。奉公人で——ツイ今しがたまで、お寺へ行っておりました」  二十七八の滑らかな感じの男です。 「お前は?」 「喜八と申します。やはり奉公人で、御親類方を二三軒廻って参りました、ヘエ」  これは二十三四の真黒な小男、いずれも下女のお百の死とは関係のなさそうなことを言っております。 「奉公人はこれで皆んなか」 「ヘエ、あとは駿府の出店の方へ参っております」  支配人の七兵衛でした。女房が厳しい訊問から解放されて、ようやくホッとした様子です。  そのとき、外から鳴り込んで来たのは、 「親分、また殺しがあったんだってね。太てえ奴じゃありませんか、下手人の見当は? 親分」  いうまでもなく、ガラッ八の八五郎。 「うるさいな、春日町《かすがちょう》の方はどうした」 「行って来ましたよ。源三郎は丸山要人《まるやまかなめ》のところへ、昨夜|亥刻《よつ》〔十時〕少し前に行って、無駄話をして、二階へ寝たことは確かで——もっとも大した用事はなかったそうですよ」  八五郎の報告からは何を掴み出せるでしょう。     六 「親分、あの娘がまたいじめられておりますぜ。可哀想じゃありませんか」  八五郎は平次の袖を引くのです。 「娘がどうしたというのだ」 「庚申塚の寅松親分は、よっぽどあの娘に祟《たた》りたいんですね。紅い扱帯が証拠でないとわかると、こんどは宵にあの娘の姿を見た者がないから、姉の部屋でなんか細工をしていたに違いないというんで」 「フーム、そんな事もあったのか。ともかく、覗いてみようか」  銭形平次は下女のお百の変死体を、ちょうど駆けつけて来た土地の下っ引に任せて、奥の方、妹娘の部屋へ行ってみました。 「なア、お君、こいつは誰が聴いたって変じゃないか。姉に薬をやったのは、戌刻《いつつ》過ぎだったというが、それから亥刻《よつ》前までざっと一刻の間、お前の姿を見たものは、家中に一人もいないのだぜ。その間お元は二度までもお前の部屋を覗いているというから、間違いはあるめえ」  寅松は嵩《かさ》にかかって、お君を責めているのです。銭形平次の出現で、自分の見込みを根底から引っくり返されたのに業《ごう》をにやして、この辺から新しい攻め手でお君を取って押え、自分の面目を立てようというのでしょう。 「……」  お君は唇をかんだまま、ポロポロと涙をこぼしております。大したきりょうではないにしても、十八の可愛らしい盛りで、赤い襟に埋めた円い顎《あご》も、水晶の玉を綴った長い睫毛《まつげ》も、たまらなく魅力的でした。 「それだけの暇がありゃ、お前にはなんだって出来たはずだ。毒薬を調合して姉に呑ませた上、姉の死ぬのだって手伝えるわけじゃないか、——なんとか言っちゃどうだ。戌刻《いつつ》過ぎから亥刻《よつ》前まで、お前はどこにいたんだ」 「それは、どうしても言えないんです、親分さん」  娘は顔を挙げました。満面を涙に洗われて、顔は美しく上気《のぼ》せておりますが、うるんだ眼は精いっぱいに見開かれて、強《したた》かな中年男の寅松に、言葉では言い解くことの出来ない自分の無実を訴えるのです。  八五郎はそれを見ると、一生懸命平次の袖を引くのですが、平次は何を考えたか、隣の部屋の敷いぎわに突っ立ったまま、黙って寅松の調べの進行を見ているのでした。 「先刻は源三郎と銭形平次の助け船で、いちおうお前の疑いは晴れたようだが、俺にはどうも腑《ふ》に落ちないことばかりだ」 「……」 「姉さえ死ねば、お前は此家《ここ》の跡取りになった上、源三郎と一緒になれるだろう。——隠すな、梅の屋の何万両の身代がある上に、源三郎はあのとおりの業平男《なりひらおとこ》だ。ヘッヘッ、図星だろう」 「私は、そんな事を、そんな事を、考えたこともありません」  お君は泣き顔を振りあげて、必死と抗《あら》がいますが、寅松はセセラ笑ってその丸い肩を小突きながら、袂の捕縄を左手でまさぐるのです。 「それじゃ、昨夜《ゆうべ》戌刻《いつつ》過ぎから亥刻《よつ》少し前まで、お前はどこに何をしていた、自分の部屋でなきゃ姉の部屋だろう。その頃お前の姉は、ちょうど殺されていたのだぜ」 「私は、私は、そんな事」  お君の抗議は、涙に濡れて絶句しました。 「親分、——それは私から言いましょう。お君さんの口からは言い難かろう」  不意に、そう言いながら飛び込んで来たのは、養子——死んだお袖の許婚——の萩源三郎でした。 「お前さんは、引っ込んでいてもらいましょうか。大事の調べの腰を折られちゃ叶《かな》わない」  寅松はムッとした様子ですが、浪人者への遠慮で、さすがに強いことも言えません。 「そう言われると困るが、親分、まず私の言うことを聴いて下さい」 「……」 「昨夜|戌刻《いつつ》過ぎから亥刻《よつ》前まで、お君さんは庭の植込みの蔭で、この私と話をしていたのですよ」  萩源三郎の言葉は、隣の部屋で聞く銭形平次にも予想外でした。 「そいつは本当か、——何を話していたんだ。え、おい」  寅松はすっかり面喰っております。 「それは聴かないで下さい。お君さんも私も、まだ若いんだから」 「……」 「私はそれで春日町の叔父のところへ行くのが遅れました。家を出たのが戌刻《いつつ》少し過ぎで、春日町ヘ着いたのは、亥刻《よつ》少し前だったんです。その間私とお君さんは、ちょうどその辺の庭石に腰を掛けて、いろいろ話しておりました。若いお君さんが、それを打ち明け兼ねたのも、無理のないことじゃありませんか」  源三郎はさすがに極りが悪かったものか、少し顔を赧《あか》らめながら——でも、大して悪びれた色もなくお君との逢引を打ちあけたのでした。  これでお君が宵に自分の部屋にいなかった理由も、源三郎が春日町へ遅く着いた理由も、簡単に説明されてしまったわけです。     七 「驚きましたね、親分。あんな可愛らしい顔をしている癖に、姉の許婚と逢引なんかしやがって」  もとの下女の部屋へ、そっと引揚げて来た平次に、ガラッ八は囁《ささや》くのでした。 「逢引したのかも知れないが、二人が好い仲とは思われないよ。お君はあんまりねんねだし、あの様子に変なところがある」 「そんなものですか」  八五郎はなおも鼻の穴をふくらませております。 「ところで。これはなんだえ、八」  平次は下女の部屋の隅から、妙なものを見つけました。 「漆喰《しっくい》かなんかじゃありませんか」  それは漆喰か胡粉《ごふん》のような白い粉末ですが、指先でつまみ上げると、触覚がねっとりして、漆喰やうどん粉のそれとは全く違います。 「嘗《な》めてみましょうよ」 「あ、待ちなよ、八。そいつが下女のお百を殺した毒かも知れない」 「ヘエ?」  つまみ上げて嘗めようとした八五郎の手を押えた癖に、平次は自分の指の先に付いた白い粉を、舌の先でちょいと嘗めてみました。 「砂糖だ」 「砂糖——がそんなに白いんで」  八五郎はまだ、砂糖というのは、真っ黒なものと信じている人種だったのです。 「白砂糖だよ——近頃は大名高家金持などがこの白砂糖を使っているそうだ。町家には珍しい品だが、大金を出せば手に入らぬこともあるまい、——が待てよ、その砂糖に毒が入っているかも知れない。嘗めるのは止すがよい」  そう言いながら平次は縁側へ出て唾《つば》などを吐いているのでした。  そこへ庭先を通りかかったのは、手代の佐吉でした。先刻、寺から帰って来たと言った、二十七八の滑らかな感じの男です。 「お前、佐吉と言ったな」 「ヘエ、なにか御用で」  佐吉は少し怯《おび》えたように、その癖どこか横着らしい、人を喰った顔を挙げて、縁側の上の平次を見上げるのでした。 「ここで、白い砂糖を持っている者はあるかえ」 「ヘエ、ないこともございませんが」 「そんな贅沢なものを誰が持っているんだ」 「番頭さんが喘息持《ぜんそくもち》で、長崎の知合いから送り届けてもらったようで、白い砂糖を時々|嘗《な》めておりますが」 「その砂糖を、誰か頒《わ》けてもらった者はないか」 「とんでもない。高い品で、私どもの手や口に入る品物ではございません」 「すると、この家中には、番頭の外に白砂糖の味を知っている者はないわけだな」 「左様でございます、——もっとも、下女のお百は、時々そっと|くすねて《ヽヽヽヽ》嘗めていたようで、——白砂糖はそりゃうまいよ——などと面白そうに言っておりました」 「有難う、それでいろいろの事がわかったよ」  平次は礼を言って佐吉を向うへやると、改めて八五郎を部屋の中へ呼び込みました。 「八、面白くなって来たぜ。お前にもういちど春日町へ行ってもらいたいが——」 「ヘエ、どこへでも行きますよ」 「丸山要人とか言ったな。源三郎の叔父さんのところへ行って、昨夜源三郎が泊った部屋を見せてもらうのだ。相手は二本差しだから、容易にはウンとは言うまいが、お前のトボケた調子で頼んだらなんとかなるだろう」 「ヘエ」  八五郎はそのトボケた調子の——大事な武器になる、長んがい顎を撫でているのです。 「そして、その部屋から、夜中そっと抜け出せるかどうか見て来てくれ」 「そんな事ならわけはありません」 「それから町内の本道の見庵《けんあん》先生に逢って、この砂糖に毒が入っているかどうか鑑定してもらうのだ——途中で嘗めちゃいけないよ。八五郎が巣鴨の往来で行倒れになっちゃ大変だ」 「大丈夫ですよ、親分」  八五郎は、平次が懐紙に集めた少しばかりの砂糖を持って、相変らず気軽な調子で飛んで行きます。     八 「銭形の親分、妙なことを聴き込んだが——」  庚申塚の寅松は、物々しい顔を平次のところへ持って来るのでした。 「なんだえ、庚申塚の親分」 「番頭の七兵衛が、うんと溜め込んでいるという話だ。家も二三軒持っているし、自分の名義で諸方に融通している金も二三千両はあるだろうということだ」  寅松はこれだけの事を聴き込みながらも、お君で縮尻《しくじ》って懲《こ》りたか、今度は積極的に動き出す前に、平次に相談してみる気になった様子です。 「そいつは耳寄りな話だが、——誰が親分にそんな事を教えたんだ」 「手代の喜八だよ——あの熊の子のような男」 「そいつは本当かも知れないが、一応喜八の口から聞いてみたいな」 「喜八なら、そこにいるよ」  寅松はそう言って庭へ降りましたが、やがて平次の前へいわゆる熊の子のような真っ黒な男をつれて来ました。 「お前は妙なことを言ったそうだな」 「ヘエ」  見上げる三白眼の嶮《けわ》しいのは、妙にこの男の印象を悪くします。 「番頭の七兵衛が、大分溜め込んでいると言ったそうじゃないか。どうしてそんな事が判ったんだ」 「私が調べたわけではございません。源三郎さんが——番頭の七兵衛さんはずいぶん取り込んでいるが、あれが知れたらうるさい事になるだろうと、こう申しました」 「それをお前は、俺達の耳へわざと入れたというのか」 「そんなわけじゃございませんが」  喜八の三白眼はいよいよ白くなるばかりです。平次はしかしそれ以上追及する気がないらしく、スゴスゴと立去る喜八を見送りながら、店の方へ入って行きました。 「番頭さん、相変らず金の勘定が忙しそうだね」  帳場格子の中で、この騒ぎの中にも算盤《そろばん》を弾いている番頭の七兵衛の態度は、世間並みの眼からは全く変でないことはありません。 「ヘエ、なんと申しても、総領のお嬢さんが亡くなった事ですから、帳面尻もよい加減にして置くわけには参りません」 「ところで、折入って聞きたいが——」 「ヘエ」  七兵衛は、その渋い顔を挙げました。悪七兵衛と綽名《あだな》された、苦虫を噛みつぶした人相です。 「この家の身代というのは、どのくらいあるんだ」 「さア、一と口には申されませんが、地所家作の外に貸金が二万両くらい、現金が三千両ばかり」 「ところで、番頭のお前さんも、たいそう持っているということだが」 「亡くなった御主人がよくわかった方で、俺も儲《もう》けるが、お前も儲けろとおっしゃって、たいそうなお手当を下さいました。それが積り積った上、私どもには子供はなし、夫婦の口までこのお店に任せてありますので、有難いことに増える一方でございます」 「お前さんのはどのくらいあるんだ」 「貸家が三軒、小さな長屋でございますが、——それに貸金が千二三百両ございましょうか。奉公人としてはこの上ない仕合せでございます」  この悪七兵衛は、自分の夥《おびただ》しい身上《しんしょう》をなんの隠すところもなくさらけ出すのです。 「これは話の外の話だが、手代の佐吉と喜八を、お前さんは信用しているのか」 「どちらも悪い人間ではございませんが、喜八はあんな熊の子のような醜男《ぶおとこ》の癖に、とんだ道楽者で、二三日前にもずいぶん強意見《こわいけん》をいたしました、——その道楽を止さなきゃ、出てもらおうとまで申した程で」 「源三郎はどうだ」 「あれは武家上がりに似げなく利口者でございます」 「総領娘のお袖さんが死ねば、源三郎は、どうなるのだ」 「さア、まだそこまでは考えておりません。いずれ親類方とも御相談して、なんとか後の事を決めなければなりませんが」  七兵衛の話にはなんの他意があろうとも思われません。  そこへ入って来たのは、七兵衛の女房お元でした。 「あの、お百の親元へ、使いを出しましたが——」  言いかけるのを、 「あ、お内儀さん。ちょっと聞きたいことがあるが」  平次がそれを横合いから呼びかけました。 「なんです、親分さん」 「手代の喜八は、たいそう番頭さんを怨《うら》んでいたようだね」 「そうなんでございますよ。自分の道楽を棚に上げて」 「ところで、これは外のことだが、——今朝お嬢さんの殺されているのを見つけたのは、お前さんだと言ったね」 「え、あんなびっくりしたことはありません。お百が雨戸を開けてから半刻も経っているのに、お嬢さんが起きていらっしゃる様子がないので、どうかなすったんじゃあるまいかと覗いてみると、あんなに様子が変っているじゃありませんか。あわてて部屋から飛び出して、大きな声で怒鳴《どな》りながら店の方へ行くと、——」 「そのとき一番先に駈けつけたのは?」 「源三郎さんとお君さんでした。二人は鉢合せしそうになって、——いえ、いえ、待って下さい。源三郎さんが少し先で、いったんお嬢さんの部屋へ入ったようでしたが、間もなくびっくりして飛び出したところへ妹のお君さんが駈けつけて、縁側で鉢合せしそうになって、今度は二人で部屋の中へ入ったようです」 「それから」 「私は店へ飛んで行って、主人や手代達に知らせました。皆んな一緒に駈けつけたようですが、あんまりびっくりして胸が痛くなって、私はしばらく店火鉢の前につんのめったようになっておりました」 「ところで、もう一つ訊きたいが」 「……」 「お前が最初に見た時と、後で見直した時と、死体に変ったところがなかったかな」 「そう言えば——」  お元は考え込みました。 「それが大事なことだが、思い出してくれると有難い」 「そう言えば、最初に、お嬢さんの死んでいるのを見つけたとき、首に、紅い扱帯なんか巻いていなかったようですが」 「それは確かか」 「待って下さいよ——こう——と、確かですよ親分。少し床から抜け出して白い首筋がむき出しになって、始めはなんにも巻いていなかったはずです。二度目に多勢の後ろからこわごわ覗いた時は、あの、紅い扱帯が首に巻いてあったんで、あんなに目立つ品だから間違いなんかありません」     九  春日町へ行った八五郎は、汗みどろになって帰って来ました。  春の陽は西に傾いて、二つの死をめぐる梅の屋の空気は恐ろしい不安を孕《はら》んだまま、次第に物の影が濃くなって行きます。 「あ、驚いたの驚かねえの」 「相変らず物驚きをする子じゃないか、道で借金取りにでも逢ったのか」 「借金取りには驚かねえが、——武士の家を家捜しする気か——と、丸山要人が腰の物を捻《ひね》くり廻したには胆を冷やしましたよ」 「で、それっきり逃げて来たのか」 「とんでもない、それじゃあっしの顔が立たねえ。精いっぱいとぼけて、お勝手口から滑り込んで、下女を口説《くど》いて、昨夜源三郎の泊った部屋を見せてもらいましたよ」 「夜中抜け出せそうか」 「いえ、あれじゃ猫の子だって抜け出せやしません。まるで城郭《じょうかく》だね。厳重な格子があって、梯子段の下には用人が寝ているし、塀《へい》には忍び返しだ」 「よしよし、それでよかろう。ところで砂糖の方はどうだ」 「町内の見庵先生は、あの砂糖を火にくべたり、銀の匙《さじ》でこね廻したり、硫黄《いおう》を交ぜたり、嘗《な》めてみたりしましたが、砂糖には毒は交じっちゃいないということでした。——お望みならそのまま餅に付けて喰べても構いませんよ、親分」 「御苦労、御苦労、それでよかろう。大概下手人の見当はついたようだ」 「誰です、その下手人は。あんな綺麗な娘を、虫のように殺した奴は?」 「待ちなよ、まだひと仕上げしなきゃなるまい。妹娘のお君をここへ連れて来てくれ」 「ここは耳が多過ぎやしませんか、向うの娘の部屋へ行っちゃどうです」 「いや、耳の多い方がいいんだ、——お前と寅松親分は、下っ引を一人ずつ連れて、表裏の入口を見張ってくれ。誰でも構わない、逃げ出す奴があったら縛るのだ」 「合点!」  八五郎は勢いよく飛んで行きました。それと入れ違いに、縁側へ出て来たのは、少し眼を泣き脹《は》らしている妹娘のお君です。夕陽を正面から受けて、少し眩《まぶ》しそうですが、いかにも開けッ放しな可愛らしい表情が、妙に銭形平次の心を動かします。 「お嬢さん、今度は隠さずに、皆んな打ちあけて下さいよ。姉さんを殺した下手人を、縛るか逃がすかという大事な瀬戸際だから——」  平次はこのいじらしい娘を迎えて、しんみりときり出しました。 「え」  お君は思い定めた様子で顔を上げます。 「昨夜|戌刻《いつつ》過ぎから亥刻《よつ》前まで、ざっと一刻の間、お嬢さんは本当に庭で源三郎と話していたのですね」 「……」  平次の静かな——が、この上もなく熱心な調子に引き入れられるように、お君は言葉もなくうなずきました。 「その時、どんな話をしました——色恋の逢引ではなかったと思うが」 「でも、源三郎さんは、変な事ばかり言って困りました」 「どんな?」 「私と一緒になってくれと——」 「で、お嬢さんの返事は?」 「姉さんに悪いから、そんな事は言わないで下さい。そう言われると、私はこの家にいられなくなると言いました」  お君の話は思いも寄らぬことでしたが、平次は予期したことらしく、大して驚いた様子もなく問いつづけます。 「源三郎は、あの許婚の姉さんをどうするつもりで」  あの美しい姉娘のお袖を捨てて、可愛らしくはあるにしても、大して綺麗ではないこの妹娘のお君を口説《くど》く源三郎の心持が、平次には呑込み兼ねたのです。 「姉さんは、源三郎さんを嫌っておりました。好い男かは知らないけれど、あの人は浮気で薄情で、気が知れないから——と言って。でも親類方や番頭の七兵衛どんは、亡くなったお父さんの遺言だからと、姉さんの言うことなんか聞こうともしませんでした。でも姉さんは、どんな事があっても、あの人と一緒になるのは嫌だと言っておりました」 「ところで、もう一つ訊くが、今朝姉さんの死んでいるのを見たとき、首に紅い扱帯を巻いてあったか、無かったか」 「え、巻いてありました。ひと眼で私の扱帯と解ってびっくりしましたが、源三郎さんが死骸へ手を着けては悪いと止めるので、そのままにして置きました」 「有難う、それでわかった。姉さんを殺した下手人は——あッ」  平次は立上がりました。裏口では、何やら打ち合う物音、それに交じって八五郎の声が、 「御用ッ、神妙にしやがれ」  と筒抜けるのです。  飛んで行くと、八五郎ともう一人の岡っ引が、脇差しを抜いて手いっぱいに荒れ廻る源三郎を相手に、薪雑《まきざ》っぽを持って必死と打ち合っておりました。多分腰の十手を抜く隙もなかったのでしょう。  久し振りに平次の投げ銭が飛んで、源三郎の武力を封じ、八五郎のクソ力でそれを組伏せたことはいうまでもありません。     *  一件落着の後、平次は八五郎のために、こう絵解きをしてやらなければならなかったのです。 「源三郎は姉娘のお袖に嫌い抜かれていることを知って、姉娘を殺して妹のお君に乗換え、梅の屋の大身代を手に入れるつもりだったのさ。紅い扱帯を死骸の首に巻いたのは、お君を一度疑わせて置いてそれを助けて恩を売る計略《けいりゃく》。お百の首に自分の前掛の紐を巻きつけたのは、わざと自分を疑わせるように仕向けて、実は潔白を見せるためだ。お百の首に細引の跡の残るのを承知の上の細工だ」 「恐ろしい野郎ですね」 「毒薬は宵のうちに煎薬《せんやく》に交ぜてお袖に呑ませ、その毒が利いて死ぬまで、お君を姉の部屋へやらないように、庭に誘い出したのだろう。お百に毒をやったのは、喰い意地の張っているお百に、砂糖をやって嘗《な》めさせたに違いあるまい。その砂糖は番頭の秘蔵のものを盗み出したので、その中に毒を仕込んだが、お百は丈夫で死にそうもないから、細引で締め殺したのだろう」 「下女の部屋に砂糖のこぼれていたのは?」 「あれは余計な細工だった。番頭の七兵衛を疑わせるつもりで、砂糖をこぼして置いたのだろう。だがお百のような喰いしん坊が、手に入れ難い砂糖を畳の上へあんなにこぼして置くはずもないし、その上こぼした砂糖に毒が入っていないと判ると、あれはお百が嘗めるときにこぼしたのでなく、あとで下手人がわざとこぼしたのだとわかったよ」 「ヘエ、なるほどね」 「番頭が大分溜め込んでいると喜八に吹き込んだのも源三郎だ。喜八は番頭を怨んでいるから、そう聞くと黙っていないだろうと見込んだのだ」 「悪い奴ですね」 「ところが、それだけの企《たくら》みにも手落ちがあった。朝お元が一番先に死骸を見つけたとき、死骸の首に紅い扱帯が巻いてなかったのに、お君と源三郎が見た時は、扱帯が巻いてあった。お元が死骸を見つけて、源三郎とお君が来るまでにあの部屋にちょっと入ったのは源三郎だけだ、——源三郎がちょっとの隙にあんな細工をしたに違いあるまい」 「ヘエ」 「源三郎は悪賢い奴だが、悪智恵のある奴は、その智恵のために縮尻《しくじ》るのだよ。それにしても、お君は良い娘だったね、八」  平次はつくづく言うのでした。  嘆きの幽沢     一 「親分、世の中には変な野郎があるもんですね」  八五郎は弥蔵《やぞう》を二つこしらえたまま、フラリと庭へ入って来ました。  朝のうちから真珠色の霞《かすみ》がこめて、トロトロと眠くなる四月のある日。 「顎《あご》で木戸を開ける野郎だって、ずいぶん尋常じゃないぜ」  平次は相変らず貧乏くさい植木の世話を焼きながら、気のない顔を挙げるのでした。 「顎で木戸は開きませんよ」  狭い庭いっぱいの春の陽の中に、八五郎はキョトンと立竦《たちすく》みます。 「でっかい弥蔵を二つ控えて、顎でも使わなきゃ、木戸の桟《さん》を動かせるわけはないぜ」 「膝と肩を使って開きますよ。銭形の親分の城郭と来た日にゃ、懐手《ふところで》をしたまま、どこからでも入れる」 「気味の悪い野郎だな、——もっとも何が入って来たところで、盗られる物はなんにもないから安心さ」 「相変らず清々した話で」 「ところで、変な野郎がどこにいるんだ」  八五郎はどうやら妙なものを嗅ぎ出して来たらしいので、平次は手洗い鉢でザッと手を洗って、縁側に八五郎と押し並んだまま、煙草盆を引き寄せました。 「ヘッ、その、滅法女の子に惚れた話なんですがね」  八五郎は平掌《ひらて》で額を叩いて、ペロリと舌を出すのです。 「お前が?」 「あっしじゃありませんよ。あっしなら朝のうちに惚れても、夕方は大概忘れてしまいますがね」 「薄情な野郎だな」 「そのかわり命にも身上にも別状はありませんよ」 「お前が別状のあるほどの身上を持ったことがあるのか」 「まア、物の譬《たと》えで、——その女の子に惚れた野郎というのは——日本橋の呉服町に井筒屋という老舗《しにせ》の太物屋《ふとものや》のあることは親分も御存じですね」 「知っているとも、三軒井筒屋の一軒だろう」 「主人は三郎兵衛といって五十そこそこ。内儀が二三年前に亡くなって、一人娘のお喜代というのは十八、こいつは滅法可愛らしい」 「お前に言わせると、十七八の娘は皆んな可愛らしいから妙さ」 「お喜代ばかりは、その中でもピカピカしていますよ。色白で公卿眉《くげまゆ》で、睫毛《まつげ》が長くて、眼が大きくて、鼻の下が短くて、心持受け口で——ヘッ」 「変な声を出すなよ、八」 「町内だけでも、深草《ふかくさ》の少将が六七人、毎晩井筒屋のあたりをウロウロするんで気味が悪くて叶わねえ」 「お前もその六七人のうちの一人じゃないのか」 「あっしは通いきれませんよ、向柳原から呉服町じゃ——それにこの節は自棄《やけ》に御用繁多と来てやがる」 「罰《ばち》の当った野郎だ」 「ともかくも、その六七人の深草の少将のうちでも、とりわけ執心《しゅうしん》なのは、井筒屋の本家筋で、今は没落した大井筒屋のひと粒種、宗次郎という二十五になるイキの悪い若旦那崩れで、仏門に入って幽沢《ゆうたく》というのが、清水寺の清玄ほどの逆上《のぼ》せようで、野がけ道の糞蝿《くそばえ》のように追っても叩いても、叱っても離れない」 「お前の言うことは一々変だな」 「なんだって頭なんか丸めたのか、色恋沙汰に出家得度《しゅっけとくど》は変だと思って訊くと、なるほどこれには深い仔細《しさい》があったそうで」 「深い仔細と来たね、お前の学もおいおい磨きが掛って、この節は承《う》け応えに困るようになったよ」 「ヘッ、それほどでもないが、——ともかく、井筒屋というのは三軒ありましたよ。南伝馬町の大井筒屋は本家で、呉服町の井筒屋はその弟分、左内町の孫井筒屋は一番の末、昔は三人兄弟だったということです。三軒とも呉服太物が本業、もっとも大井筒屋の先代は山気があって、廻船問屋をやったり、唐物《とうぶつ》や小間物を扱ったり、内々は抜け荷も捌《さば》いたということですが、今から十年ほど前から左前になって、三年前にあせりにあせって出した船が三杯とも帰って来ず、主人の宗右衛門はそれを苦に病んで首を縊《くく》り、家も藏も人手に渡って、一人息子の宗次郎が、裸一巻で投り出されてしまいました」 「それが深草の少将になったというわけだろう」  平次は先を潜りました。     二 「大井筒屋の若旦那の宗次郎と、井筒屋の娘のお喜代は生れない前から許婚《いいなずけ》だったそうですよ。ところが大井筒屋が没落して、主人の宗右衛門が死ぬと、井筒屋の三郎兵衛は、昔の義理なんかけろりと忘れて、本家の若旦那の宗次郎を寄せつけないばかりでなく、孫井筒屋の息子の浪太郎というのを養子に入れ、浪人者の用心棒まで雇って、フラフラお喜代に逢いに来る宗次郎を撲《ぶ》ったり叩いたりする有様で——」  八五郎は委細構わず語りつづけました。 「薄情もそれくらいキビキビしていると、相手に未練を残させなくてよかろう」 「ところが、宗次郎は、一度は何もかも諦めたつもりで、寺へ飛び込んで頭を丸めてしまったが、お経を誦《よ》んでも、坐禅《ざぜん》を組んでも、諦めきれないのが、お喜代のポチャポチャした可愛らしさだ——眼の前にチラ付いて、寝ては夢、さめては現《うつつ》」 「下手な恋文の文句みたいだよ」 「とうとう寺を飛び出して、墨染の法衣《ころも》に五分|月代《さかやき》、鐘なんか叩いて井筒屋の側を離れない」 「なるほどね」 「撲ったり叩いたり、水を打《ぶ》っ掛けたり、犬を嗾《けし》かけたりしてみたが、命も見得も棄ててしまって、お喜代の顔をひと眼見たさに喰い下がる、恋の亡者には手の付けようがない」 「恐ろしく思い込んだものだな」 「井筒屋でもすっかり手を焼いてしまった。第一日本橋の呉服町の、店の廻りを、朝から晩まで、小汚い坊主がウロウロしていちゃ商売にさわります。そこで、いろいろ考えた末、根岸の寮——と言っても、小大名の下屋敷ほどの立派なものですが、そこへ娘のお喜代と下女のお竹をやることにしたが、宗次郎の幽沢はどこまでも跟《つ》いて行って、清玄の亡霊のように娘を悩ますんで」 「養子の浪太郎は一緒に行かないのか」 「まだ祝言前で、一緒に置くわけにも行かなかったんでしょう。そのうえなんの因果《いんが》か、娘のお喜代は浪太郎が大嫌いで、顔を見ただけでも、身ぶるいがして胸が悪くなるというから大変でしょう」 「よくよく嫌われたものだな」 「浪太郎は、その癖ちょいと好い男で、少し狐顔ではあるが、才弾《さいはじ》けた男ですよ。年は二十二とか言いました。人の話を半分聴いて呑み込む癖はありますがね」 「で?」 「根岸の寮へやったものの、化けそうな幽沢坊主が付きまとっちゃ、放っても置けません。養子の浪太郎をやって、用心棒の浪人者寺本金之丞をやって、それでも叶わなくなって、近頃では主人の三郎兵衛までが根岸泊りだ」 「店は?」 「孫井筒屋の駒吉——養子の浪太郎の親父ですがね、——それが入って来て、番頭の周吉と一緒に見ているはずです。もっとも孫井筒屋は自分の店もあるから、呉服町と左内町を掛け持ちでしょう」 「それっきりか」 「それきりですがね、井筒屋の主人の三郎兵衛は、銭形の親分のような、物のわかった方にお願いして、娘にダニのように喰い下がっている宗次郎の幽沢坊主を、追っ払ってもらうわけには行かないものかと——」 「もうたくさんだよ」 「物の道理を言い聞かせるなり、縄を打つなり、平次親分ならワケもなく裁《さば》いて下さるだろう——と」 「お前そんな事を引き受けて来たんじゃあるまいな」 「あっしはイヤだと言いましたよ。でも井筒屋の主人が、さんざん御馳走した上、折入っての話で——」 「馬鹿野郎」 「ヘエ?」  平次の声は激しく八五郎の話の腰を折りました。 「いい聴かせてやりてえのは、井筒屋の主人の方だよ。本家が零落《れいらく》したら付き合わねえというのも不人情だが、そんなに焦《こが》れている娘の許婚を坊主にさせてまで、撲つの蹴《け》るのとは、なんということだ」 「……」 「そんな不人情野郎の御馳走になった上、俺まで引張り出そうとは、お前も少し不料簡だぞ、八」 「ヘエ」 「娘が嫌がっているなら別だが、養子の浪太郎とやらを嫌っているようじゃ、宗次郎坊主にうんと未練があるんだろう。墨染の法衣《ころも》を脱がせて洗い上げたうえ、見事娘に添わせてやれ——とそう言って来るがよい」 「でも、一度坊主になった宗次郎ですよ」 「坊主頭がなんだえ、三年も経てば付け髷《まげ》をするくらいには生《は》え揃うよ。馬鹿馬鹿しい」 「驚いたね、どうも」  八五郎はまことに這々《ほうほう》の体でした。近ごろ親分の平次に、こんなに怒鳴られたことはありません。     三  それから三日経たないうちに、事件は思いも寄らぬ発展を遂げました。 「親分、八五郎親分の手紙ですが——」  お山の熊吉という、ノッソリした下っ引が、蚯蚓《みみず》をのたくらせた、八五郎の仮名文字の手紙を持って来たのです。 「八の手紙を弁慶《べんけい》読みにしていた日にゃ、急ぎの用事は間に合わないよ。なにか口上はないのか」  平次はこの仮名で書いた邪馬台《やまたい》の詩のような八五郎の手紙を開いたまま、まさに途方に暮れているのでした。 「根岸の井筒屋の寮に殺しがあったんです」 「誰が殺されたんだ」 「主人の三郎兵衛が、縁側で絞め殺されておりました」 「そいつは」  銭形平次も驚きました。ツイこのあいだ八五郎が、妙な匂いを嗅ぎ出して来た井筒屋に、早くも殺しがあろうとは思いも寄らなかったのです。  平次は熊吉を案内に、根岸に向いました。御隠殿裏の百姓地で、この上もなく閑静なところですが、寮はなかなかの構えで、町人の住いにしては、少し僭上《せんじょう》らしく見えます。もっとも建物は相当豪勢でも、広い庭は大方掘り起して、菜っ葉や芋を育て、眺めよりは世帯のことを考える主人の好みも、なまじお茶がらない良さはあります。 「親分、あっしの手紙を読みましたか」  縁側から顔を出したのは八五郎でした。 「お前の手紙は苦手だよ。明神下からここまで来るあいだ、どうにかこうにか弁慶読みにしたが、不思議なことに少しも解らねえ」 「驚いたね」 「俺の方がおどろくよ。幸い熊吉が来てくれたから、ここまで辿《たど》り着いたようなものだが」 「あ、親分、その足跡を踏んじゃいけません。畑を真っすぐに突っきって逃げたんだ、そいつは曲者の足跡ですぜ」  八五郎は縁側から、南縁の下まで堀り起した畑の上を指さしているのでした。  何やら物の芽《め》は出ておりますが、二三日前の雨で畑の土はよく均《なら》され、その上へ真一文字に付いた草鞋《わらじ》の跡は、点々として描いたように鮮明です。 「こいつが、どうして曲者の足跡とわかったんだ」  平次は念入りに足跡を調べて、ようやく腰をのばしました。 「曲者はたぶん宵のうちから忍び込んで軒下に身をひそめ、主人が夜半《よなか》に手洗に起きて、雨戸を開けたところへ飛びかかって絞め殺し、畑を真っすぐに抜けて、裏木戸から逃げたに違いありません」  八五郎の説明はまことに行き届きます。 「そこまで判れば、俺が来るまでもないじゃないか。何が不足で明神下まで蚯蚓《みみず》をのたくらせたんだ」 「三輪の万七親分が、宗次郎の幽沢坊主を縛って行きましたよ」 「恐ろしく早手廻しだね」 「すると——あんな汚ない坊主のどこが良いか知らないが、お嬢さんのお喜代さんが、泣きの涙で銭形の親分を呼んでくれと言うんです。あっしじゃどうも不足らしいんで——」 「お前のほうが不足らしいじゃないか」 「お嬢さんを呼んで来ましょうか」 「いや、ひと通り見てからのことだ」  平次は縁側から入りました。 「主人の死骸はここにあったんだそうです。雨戸一枚は開いたままで」  八五郎は戸袋の側、よく苔《こけ》の付いた御影石の洒落《しゃ》れた手洗を指さすのでした。 「柄杓《ひしゃく》は?」 「縁側に投《ほ》うってあったそうで」 「昨夜《ゆうべ》は月があったな」 「十三夜ですよ」 「その月の良い晩に、前から曲者が飛びついて首を絞めるのを待っているはずはないな、八」 「そうでしょうね」 「すると曲者は、主人の後ろから飛びついて絞めたか、でなければ——」 「?」 「ほかの場所で絞め殺して、縁側へ持って来たことになるわけだが」  平次は腕を拱《こま》ぬきました。深沈《しんちん》たる瞳は何を考えているでしょう。     四 「ヘエ、銭形の親分さんで、とんだお手数をかけます」  丁寧なような、そのくせ横柄《おうへい》なような調子で、孫井筒屋の駒吉が顔を出しました。その後につづいたのは、番頭の周吉。駒吉の頑丈で色が黒くて、眼鼻立の立派なのと対照して、周吉は萎《しな》びて小さくて、一握《ひとにぎり》ほどの中老人です。歳はどちらも五十前後、親類頭で支配人格で、万事駒吉の方がリードしている様子でした。 「とんだことだね。ところで、仏様は?」 「こちらでございますが」  案内されたのは、すぐ障子の中、まだ入棺の運びにもいたらず、床の上に寝かして、香華《こうげ》だけ供えてあります。  死骸になった主人の三郎兵衛は、これも五十前後の見事な恰幅でした。少し因業らしくはあるが、顔の道具なども立派で、まずは大店《おおだな》の主人としての貫禄も申し分なく、身扮《みなり》——と言っても寝巻のままですが、それが思いのほかに贅を極めております。  むくんだ顔や、首のあたりの縄の跡、喉仏の皮下出血など、これはひと眼で絞殺とわかり、しかも荒々しい細引が、首に巻きついていたそうで、その細引を後で見せてもらいましたが、どこから持ち出されたか見当もつきません。 「これを見つけたのは?」  平次は顔を挙げて、二人の中老人を見ました。 「私でございます」  応《こた》えたのはその後ろからそっと顔を出している三十五六の醜《みにく》い女でした。下女のお竹というのです。 「後前《あとさき》のことを詳しく話してくれ」 「孫井筒屋さんが、急の御用があるとおっしゃって、番頭さんと御一緒にいらっしゃいましたので、旦那様を起こしに参りますと——」 「時刻は?」 「亥刻《よつ》〔十時〕近かったと思います、——縁側の雨戸が一枚開いて、お月様が射し込んでいるじゃございませんか。ハッとして見ると、そこに旦那様が——」  お竹はその時の恐ろしい有様を思い出したらしく、大きく固唾《かたず》を呑みました。 「それから」 「たぶん私は大きい声を出したことでしょう、皆んな一緒に飛んで来ました」 「誰と誰だ、順序を知ってるだろう」 「寺本様と、若旦那様と、それから孫井筒屋さんと、番頭さんと、お嬢さんも見えたようです」 「主人の体に触ってみたか」 「私と孫井筒屋さんと二人で、抱き上げてお部屋へ入れましたが、その時はもう、少し冷たくなりかけていたようで」 「冷たくなりかけて?——主人はそんなに早く休むのか」 「晩酌を二本くらいやると、すぐお休みになりますが、小用の近い方で、宵に一度は必ず手洗いに起きます」  番頭の周吉は説明してくれます。 「昨夜休んだのは?」 「戌刻《いつつ》(八時)前だったと思います」  お竹が代わりました。 「戌刻《いつつ》に休んで——半刻《はんとき》〔一時間〕も経たないうちに手洗《ちょうず》に起きたことになるわけだな。亥刻《よつ》に見つけたとき、死骸が冷たくなりかけていたとすると——」  平次の胸には、また新しい疑いが芽を出しました。 「ところで、昨夜そんなに遅くなってから、日本橋の店から根岸まで来たのはよくよく急ぎの用事でもあったのか」  平次は重ねて問いました。 「左様でございます。井筒屋一家で出した船が、三年前に難破いたしましたが、それが天竺《てんじく》の方まで流されて、三年目で長崎へ入ったという知らせが一と月ほど前にありましたが、昨日《きのう》になって、その船が無事で清水港に着いたという知らせが参りましたので、なお念のために新堀の廻船問屋と、浜町の荷主のところへ私と周吉どんと手わけをして参り、いろいろ打ち合わせた上、上野山下の知合いの家で落ち合って、今では井筒屋の総本家になっているここの主人に知らせに参ったようなわけでございます」  孫井筒屋の駒吉は、こう筋を通して説明してくれるのでした。 「すると主人はその知らせを聴かなかったのだな」 「せっかくの吉報ですが、——残念なことに私ども二人が参り、表戸を叩いて開けさせ、下女のお竹に取次がせますと——あの有様で——」  駒吉の声は湿ります。     五  二人の中老人と下女のお竹を退けて、少し経ったら来るようにと、娘のお喜代を呼びにやりましたが、その間に平次は、忙しく四方《あたり》を見廻しました。  部屋の中は少しの取り乱した様子もなく、雨戸も明らかに内から開けたもので、敷居にも桟《さん》にも、なんの傷もありません。縁側から眺めると、畑の柔かい土の上に、足跡は木戸まで続いておりますが、不思議なことにその足跡は、酔っ払いが歩いたように、少しばかりよろけており、ひどく小刻《こきざ》みなのも|そぐわ《ヽヽヽ》ないものを感じさせます。  縁の下も軒の下もなんの異状もなく、踏み固められたその辺には、もとより足跡もありません。そこから表に廻るためには、跨《また》いでも越せそうな、低い竹の木戸があるだけ、曲者はそっちへ逃げずに、わざわざ畑を通って、足跡を残したのもどうかしております。  庭下駄を穿《は》いて外へ出ると、 「八、この足跡は柔かい畑の土へ、判こで捺《お》したようにメリ込んでいるが、よく見ると足袋を穿いているようだな」  足跡を覗きながら八五郎に声を掛けます。 「あっしもそれに気がついていましたよ」 「ところでお前は、今朝幽沢とかいう坊主の縛られるところを見ていたのか」 「見ましたとも、竹垣の外でウロウロしているのを、万七親分が飛びつくように襟首を取って引っ立てましたよ」 「何を穿いていた」 「素足にひどく長刀《なぎなた》になった草鞋《わらじ》でしたよ」 「その幽沢はどこにいるんだ」 「金杉《かなすぎ》新田の庵室にいますよ、まるで浮世清玄で」  家をグルリとひと廻りして、平次はもとの縁側から入ると、娘のお喜代は、しょんぼりとそこに待っておりました。  少し眼を泣き腫《は》らしてはおりますが、八五郎が前触れしたとおり、これはまことに抜群のきりょうです。十八というにしては成熟しきった身体も見事に、薄紅を含んだ温かい凝脂、公卿眉に柔かい鼻筋、唇が濡れて、時々|せぐり《ヽヽヽ》上げる歔欷《なきじゃくり》も、痛々しく可愛らしい限りです。 「俺は平次だが、——お嬢さんはなにか八五郎に頼んだそうだな」  平次は側へ寄って、その肩を叩いてやりたい心持でしたが、丸く肉付いた処女《おとめ》の肩の、色っぽい線を見ると、ハッと驚いてその冒涜的《ぼうとくてき》な手を宙に留めました。 「銭形の親分。私は、私は」  お喜代は飛びつきそうにして、これも立竦みました。平次の若さと、思いも寄らぬ渋い男振りに、フト気がさしたのでしょう。 「遠慮をせずに言うがよい、何がいったい」 「私は、父さんを殺した人を知っているような気がするんです」 「それは誰だ」 「でも、でも言えない。証拠は一つもないんですもの」 「この場限りに聞き棄てるとして、そっとあっしに教えてくれないかお嬢さん」 「私は言えない、どうしても——でもあの人じゃありません。宗次郎さんはそんな人じゃない、可哀想に」  お喜代はまた|せぐり《ヽヽヽ》上げました。処女の睫毛《まつげ》を溢れて、涙が頬へ、襟へと落ちるのを、赤い袂で無造作に押えるのです。 「ところで、平常《ふだん》お父さんを怨んでいる者はなかったのか」 「……」  お喜代は袂に顔を埋めたまま、黙って頭を振りました。 「盗《と》られたものは?」 「なんにも」 「お嬢さんは、宗次郎と内々で約束でもあったのか」  お喜代は激しく首を振りました。忍び泣く声が痛々しく袂を洩《も》れます。  これ以上何を訊いても、恐らく満足な応《こた》えは望めないことでしょう。娘心の奥の奥、とき色の八重の帳《とばり》の中を、フト覗いたような気がして、平次はそのまま帰してやるほかはなかったのです。     六  養子の浪太郎は、父親の駒吉に似ぬ華奢立《きゃしゃだち》で、見ようによっては、なかなかの好い男振りでした。少し狐面で、才走ってはおりますが、こんなのが案外若い娘達に騒がれるのかもわかりません。 「昨夜のことを詳しく聴きたいが——」  と言うと、 「晩飯は酉刻《むつ》〔六時〕少し過ぎ、それから寺本さんと碁《ご》が始まって、父親が自分の部屋へ引き取ったのも、お竹が茶を入れてくれたのも、なんにも知らず夢中になっておりました。するとあの騒ぎでしょう、いやもう、驚いたのなんのって」 「勝負は?」 「二た刻《とき》の間に三番打ちましたが、三番とも負けましたよ」  浪太郎は子供っぽく笑って、ポリポリと小鬢《こびん》などを掻くのです。 「主人が死んでしまえば、井筒屋の跡は、お前が継ぐことになるわけだね」  平次はズバリと言いました。まさに大きな伏兵といった感じです。 「と、とんでもない。養子といっても名前ばかりで、私はまだお喜代さんと祝言したわけでもなし」  浪太郎はひどくヘドモドするのでした。  寺本金之丞というのは、三十五六の浪人者で、大町人などがよく飼って置く用心棒にしては、あまり強そうにも見えません。 「銭形の親分、——宗次郎の幽沢は、万七親分に縛られて行ったぜ。あとはもう、なんにも捜すことはあるまい」  肉の薄い顔に皮肉な微笑を浮かべて、こんな事を言いきる男です。  背の高い、青髯《あおひげ》の凄まじい、なんとなく人好きはしません。 「寺本さんはいつ頃から井筒屋にいらっしゃいます」 「ちょうど一年前からだ、——あの宗次郎がうるさいし、何を仕出すかわからないというので、主人にたって頼まれたのだよ。用心棒などというものは、あまり武士のほまれにはならぬが、これも世過ぎのためだ」 「寺本さんは|やっとう《ヽヽヽヽ》の方はお強いでしょうな」 「いやもう、カラだらしがないよ。強いのは碁《ご》の方さ、剣道が自慢なら主取りをしているよ、——もっとも下手《へた》だといっても、ひと通りの心得はある。まさか細引で人を絞め殺すような、不体裁なことはしないつもりだ」  こんな事を言ってニヤリニヤリとする男です。 「ところで、宗次郎の外に、主人を怨む者の心当りはありませんか」  平次は押して訊ねました。 「ないよ、——宗次郎は大井筒屋を没落させたのは、井筒屋と孫井筒屋の|せい《ヽヽ》だと思い込んでいるし、お喜代との間を割かれているじゃないか。あの男が下手人でなきゃ、主人三郎兵衛は自分で自分の首を絞《し》めたことになるぜ」 「ですがね、寺本さん。主人を殺したのは、その幽沢坊主の宗次郎じゃありませんよ」  平次はツイ言わいでものことを言ってしまいました。寺本金之丞の面があまりにも憎かったのです。 「宗次郎じゃない、——では誰だ、聴こうじゃないか。宗次郎のほかに、主人を殺す者があるわけはない、——第一あの畑の中の足跡が証拠じゃないか」  寺本金之丞は畑の中に点々として残る足跡を指さしました。 「ところが、あの足跡は足袋を穿《は》いた新しい草鞋《わらじ》ですが、宗次郎は足袋を穿かないし、草鞋もきれかかって長刀《なぎなた》になっていたということですよ」 「足袋は穿いても脱げるぜ。草鞋だって自由に穿き換えられるじゃないか」 「御尤《ごもっと》もですがね、寺本さん。あの畑の中の足跡は、逃げて行ったのじゃなくて、後向きになって入って来た足跡ですよ」 「なんだと?」  寺本金之丞は|きっ《ヽヽ》となりました。 「逃げ出した足跡なら、爪先《つまさき》に力が入って深くめり込んでいるはずなのに、あの足跡は爪先が軽くて踵《かかと》の方が深くめり込んでいますよ。それに、小刻《こきざ》みによろけるように歩いているのは、後向きになって垣から縁《えん》のところまで歩いて来た証拠じゃありませんか」 「……」 「それから、主人はあのとおり恰幅《かっぷく》もよく力もありそうだし、宗次郎はヒョロヒョロの腹の減《へ》った乞食坊主でしょう。十三夜で月が良いとなると、縁の下からその乞食坊主が飛びついて首を締めるのを、主人が黙って任せているでしょうか」 「……」 「まだ足りなきゃ、主人の夜具の裏を見て下さい。町人には贅沢な絹夜具の裾裏が、何を引っかけたか鉤裂《かぎざ》きになっているでしょう。首を締められる苦しまぎれに、主人が暴れたのでなきゃ、あんな具合にはなりませんよ」 「……」 「まだありますよ。戌刻《いつつ》に寝た主人が小用に起きて殺されて、亥刻《よつ》には冷たくなりかけていたというのは、どう考えても時刻が合わないことになりゃしませんか、——下手人は間違いもなく家の中の者ですよ。晩酌に酔って寝込んだ主人の寝入りばなを、そっと忍び込んで締め殺し、雨戸を開けて畑に足跡をつけ——」  平次はフト口を緘《つぐ》みました。それならば足跡は真っすぐに垣の方へついているべきはずなのに、逆に後向きに外から縁の方へ歩いてつけたのは、平次の叡智をもってしても、咄嗟《とっさ》の間には、判断のつかない謎だったのです。  が、これだけでも寺本金之丞の毒舌を封ずるには充分でした。 「家の者というと、拙者と浪太郎殿と、下女のお竹の外にはいなかったのだぞ」  などというのが精いっぱいです。 「いずれ、その三人のうちでしょうよ」  平次も負けてはいません。 「拙者と浪太郎殿は碁を打っていたのだ——お竹もそれを見ている」 「相談ずくなら独碁《ひとりご》を打って、一人が脱け出すという術《て》もありますよ」 「何? 拙者と浪太郎が怪しいというのか、もういちど言ってみろ」  寺本金之丞は我慢のなり兼ねた様子で、一刀を引き寄せるのです。 「そうは申しませんが、——ともかく下手人が宗次郎でないとわかれば結構で——おい、八」 「ヘエ」  八五郎は抜からぬ顔で、平次の後ろへノソリと立ちました。 「俺は少し外を調べたい——お前はここへ残って見張ってくれ。それから昨夜番頭さんと孫井筒屋さんの廻った先と落合った場所を訊くのだ、——それじゃ、寺本さん。まア御立腹なさらずに、よく見て置いて下さい。あっしは決して、寺本さんを疑っているわけじゃございません」  そう言い捨てて、平次は立上がりました。後ろの方からそっと、手を合わせている娘のことを、眼の早い平次は知らないはずもありませんが、それには眼もくれず、縁側から滑るように、外へ出てしまいました。     七  その晩の亥刻《よつ》過ぎ、八五郎が暴れ馬のように飛び込んで来ました。 「サア大変。親分、すぐ根岸まで行って下さい」 「なんだえ、八。大変|国《こく》から飛脚《ひきゃく》が来たようじゃないか」 「宗次郎の幽沢坊主が刺されましたよ。井筒屋の寮の後ろで、家の中を覗いているところを——」 「なるほど、そいつは厄介だ、——三輪の万七親分は?」 「幽沢坊主が、昨夜|托鉢《たくはつ》に行って——」 「あんな色坊主でも托鉢に出るのか」 「一箇寺《いっかじ》の住職じゃないから、食うためには托鉢もやるでしょう、深川の遠い親類に泊ったとわかっちゃ、三輪の親分でも縛って置くわけに行きませんよ。とんだ面《つら》の皮で」 「面の皮だけは余計だよ」  そんな事を言いながら、夜更けの街を根岸へ飛びました。  井筒屋の寮では、主人が死んでしまえば今は憚《はばか》る人もなく、娘のお喜代が無理を言って、傷ついた幽沢の宗次郎を担ぎ込み、遠くから外科まで呼んで介抱しておりました。 「驚いて気を喪《うしな》ったらしい。傷は大したことじゃない。狙《ねらい》が外れて脇腹をかすられただけのことで、膿《うみ》さえ持たなきゃ、二た廻《まわ》りもすると癒るだろう」  外科は一応の手当をして帰ったところへ、平次と八五郎が駈けつけたのです。  幽沢の宗次郎というのは二十五六の、汚なづくりではあるが好い男でした。細面の陽に焼けた顔は、五分|月代《さかやき》ほどに伸びた頭とともに、浅ましくも荒れ果てておりますが、キリリとして、情熱家らしくて、自分のためにこうまでなったと思うお喜代にとっては、金にも生命にも換え難い、いとしい心中の男に見えるのでしょう。  枕許にはお喜代のほかに、番頭の周吉と孫井筒屋の駒吉がついて、なかなかによく世話をしておりますが、傷ついた宗次郎は、薄汚ない身に恥じたが、さすがに居心地が悪そうです。 「どうしたことだ、後前《あとさき》のことを聴かしてくれ」  平次の問いに、 「井筒屋の主人が殺されたと聴いて、三輪の親分に縄を解かれると、すぐここへ駈けつけました。お喜代さんの身の上が心配だったんです。悪者はどうかすると、お喜代さんを狙わないとも限らないと思ったからです」 「?」  平次は黙って先を促しました。 「表から入るわけにも行かず、裏の竹垣の外から覗いていると、いきなり誰やらが来て、逃げようとするところを、後ろから脇腹を刺されました。私は大きな声を出したかも知れませんが、気が遠くなってしばらくは何がなんだかわかりませんでした——気がつくと多勢の人達が、私を抱き上げてここへ入れてくれましたが——」 「曲者《くせもの》の顔を見なかったのか」 「月は雲に隠れておりました。ハッとしたときは、もう刺されていたんです」 「なにか気のついたことがあるだろう」  平次にそう言われて、宗次郎の幽沢は、頼りない首を動かしましたが、 「そう言えば、プーンと煙草の匂いがしたようで」  そういうのが精いっぱいのところです。 「この中で煙草の好きなのは?」  平次は四方《あたり》を見廻しました。 「拙者と駒吉殿だ」  寺本金之丞が応じます。 「申し兼ねますが、寺本さん、お腰の物を拝見できませんか」 「何? 拙者の腰の物?」  寺本金之丞はサッと顔色を変えましたが、思い直した様子で、 「サア、よく見てくれ」  引き寄せた一刀を、鞘《さや》ごと平次に突き出しました。 「拝見いたします」  平次は一応その鞘を調べ上げた上、柄糸《つかいと》にわずかばかり血の付いているのを、黙って寺本金之丞に見せた上、静かに一刀を引き抜きます。 「あッ」  中味は班々《はんぱん》たる血、一同の眼は思わずその血刀と寺本金之丞の顔に釘付けになります。 「寺本さん、驚きなすったでしょうが、これで疑いが晴れましたよ」 「一体これはどうしたということだ」 「柄糸に血が付いているので、お腰の物を拝見しましたが、刀に付いた血は、人を刺したためでなくて寺本さんに罪を被《き》せるために、手で手拭かなんかに湿した血を、ベタベタと塗ったものとわかりました。このとおり」  まさに平次の言うとおりでした。刀の上に着いた血は、刀身にベタベタと塗ったもので、肝腎《かんじん》の切尖には、ほとんど血の跡もなかったのです。 「さすがに銭形の親分だ、お礼を言うぞ」  血刀に拭いをかけて鞘に納めたうえ、寺本金之丞は心持頭を下げました。この皮肉で剛情な浪人者も、平次の叡智に舌を捲いたのでしょう。 「おだてちゃいけません、——しかし、曲者は大した智恵者ですよ」  平次の言葉に、一座は思わずシーンとしました。     八  八五郎に後を任せて、根岸の寮を飛び出した平次は、それがどこをどう廻ったか、翌る日の昼頃にはヘトヘトになりながら、威勢よく根岸に帰って来て、井筒屋に関係した男女全部を主人の棺《かん》の前に集めました。 「八、お前はそこで見張って、一人でも逃げ出す者があったら縛るんだ。よいか」 「大丈夫、暴れ馬だって逃がしゃしませんよ」  八五郎は縁側に頑張って肩肘《かたひじ》を張ります。 「では、仏の前で話そう、——大井筒屋が三年前に没落したのは、船が何杯も難破したためと言われているが、そのうちの一艘が、天竺《てんじく》まで流されて行って、積荷を捌《さば》いた上、大した金目のものを積んで、清水港まで来ているのだ。——曲者はこれに眼をつけ、井筒屋の主人を殺し、その次には、大井筒屋の跡取りの宗次郎を殺そうとした——と言ったら、曲者はもうわかるだろう。畑の泥の着いた足袋を風呂敷に包んで、山下の小料理屋に預けていった奴、昨夜足袋を穿《は》いていなかった奴——煙草が好きな奴」 「野郎ッ」  そっと座敷から滑り出そうとした曲者は、縁側に網を張っていた八五郎に、ガッキと組付かれました。どちらもなかなかの腕前で、組んだまま庭へ転がり落ちたのを、縛り上げるまでには、平次も手を貸さなければならなかったのは大したことです。 「骨を折らせやがる——お前が下手人だったのか」  襟首を取って上げられた無念の顔は、それは孫井筒屋の主人、浪太郎の父親の駒吉だったのです。     *  事件は落着《らくちゃく》しました。駒吉は獄門になり、それを手引きして、雨戸を開けてやった倅の浪太郎は、薄々事情を知っていたにもかかわらず、知らぬ存ぜぬで押し通して遠島で済みました。  清水港から江戸へ入った大井筒屋の船には南蛮物の夥《おびただ》しい品物のほかに、金銀珠玉が積んであり、宗次郎は還俗《げんぞく》してこの莫大な富を承け継ぎ、お喜代と一緒になったのは、それから後の話です。  八五郎にせがまれた銭形平次は、 「あとで考えるとつまらない事さ。番頭の周吉と一緒に出た駒吉は、浜町の荷主のところへ廻ってひと足先に根岸へ着き、草鞋《わらじ》を穿いて後向きに縁側にたどりつき、前から打ち合わせのあった倅の浪太郎に合図をして、小用に立ったと見せて雨戸をあけさせ、そっと忍び込んで晩酌《ばんしゃく》に酔ってよく寝ている三郎兵衛を絞め殺したのだ。それから竹垣を跨《また》いで表へ逃げ、上野山下の小料理屋で周吉と落合い、泥足袋を風呂敷に包んで、小料理屋に預けたまま素知らぬ顔で根岸まで引返したのさ」 「なんだってまた後向きに歩いたのでしょう」 「家の中にいる倅に疑いをきせたくなかったのと、一つは宗次郎を罪に陥《おと》そうとしたのだ」 「ずいぶん悪い野郎ですね」 「宗次郎を刺した刀は、隠す隙がなかったとみえて、田圃の泥の中に突っ込んであったよ、——泥足袋を捨て兼ねたケチな根性が、身の破滅になったわけだが」 「でも宗次郎とお喜代は幸せそうで良い|あんべえ《ヽヽヽヽ》ですね——あっしは世の中にあれほど惚れ合った人間を見たことはありませんよ」  そう言う八五郎は少しばかり羨《うらや》ましそうでもあります。   (完)